東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.58

仁義と礼儀 

日下隼人   礼儀のないところに仁義は果たせません。プロとしての仕事を果たすように私たちに求めてきた人に、礼儀正しく接するのはあたりまえのことです。敬語が「よそよそしい」と否定的に言われたりすることがありますが、それは敬語に心が込められていないからです。
   「うん、うん」「そうなんだ」「・・・だね」「検査してみようか」「お薬、飲んでみて」「よかったね」「だめだよ」・・・、のような敬語抜きの言葉。「あなたの病気は・・・・なんですよ」「いいですよ」「OKです」のように敬語は入るけれど、評価的であったり説明してあげるという「上から」目線の言葉。そういう言い方は、やはり「仁義を欠いている」と私は思います。
   挨拶のできない医療者(主に医者ですが)もいっぱいいます。職員同士でも、「おはようございます」と言われても黙って頭を下げるだけであったり、それすらしない人もいます。警備職員や清掃職員に対しては会釈すらしない人のほうがずっと多いのです。人の性格は歩き方や服装からうかがわれます。傲慢そうな歩き方、だらしない歩き方、かったるそうな歩き方、早足でわき目も振らない歩き方。だらしない服装。こんな人と=自分に対して失礼な態度の人と、心からつきあいたいとは誰も思わないでしょう。病院だから仕方なく、あるいは敷居を低くして、患者さんが「我慢して」医療者とつきあってくれてはいますが、そのことに医療者は気づかないのです。
    こんな態度で、敬語を使わずに会話する。それは、まともな社会人のつきあいではありません。それを「おかしい」と言ってもらえないのが医療者です。
    医学教育で、医師になることの怖さ・危うさは教えられているのでしょうか。医師としての人生は面白いことがいっぱいあります。自然科学としても人文科学としても社会科学としても学べることはいっぱいあります。研究者の道も臨床医の道もあり、同じ臨床医でも大病院・中規模病院・開業・僻地・海外などたくさんの場があります。政治への道もありそうです。でも、その面白さと引き換えに、人格としては無限に堕ち続けうる仕事なのです。医師になったとたん、多くの人に頭を下げられます。どんな言動をしても、たいてい相手の人が妥協して(諦めて)、受け入れてくれます。「上から目線」の言葉も態度も、批判されることはありません。自らの言動を正面からきちんと批判してくれる人は、ほとんどいなくなります。仕事の性質上、自分は正しいこと・良いことをしているという「思い込み」をいくらでも膨らませることができます。このような環境で人格的に成長することはほとんど不可能です(「針の穴に駱駝を通す」なんていう喩えもありました)。自分の狭小な人間観や世界観を疑うこともなく、その価値観から人や出来事を恬然と評価・裁断することができてしまいます。「先生」と呼ばれる人間は「ばか」になることになっています。
   「自分が正しいことをしている」と思っている人の相手を見下した態度ほど、人を傷つけるものはありません。こうした怖さを伝えないコミュニケーション教育は、教育になっていないと思います。

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