東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.60

ノイズ(2) 

日下隼人   病むことも、障碍も、老いも、異国籍の人も、生活保護の人も社会のノイズとされてしまうのが現代です。そのことと、患者さんの言葉がノイズと聞こえることとは繋がっているのでしょう。「ノイズ」には、病気になった人の「弱さ」や「哀しさ」や「悔しさ」が込められています。「ノイズ」から、医学の枠に入りきらない患者さんの人生が垣間見えます。ノイズを処理すべきものと考えている限り、患者さんの「身になる」ことも「立場に立つ」こともできないように思います。「ノイズ」と感じたことをただのノイズにとどめることは、差別・排除の源なのかもしれません。
   元気な若い医師たちを見ていると、患者とともに「ノイズ」にとどまり続けることが難しい人もいるのかもしれないという気がします。10年余り、研修医の採用試験で多くの医学生たち(700人くらい)の面接をしてきましたし、多くの若い医師たちと出会ってきました。私には、その多くが屈託のない優等生に見えます。文武両道に優れ、これまでの人生を「良い子」で生きてきているのでしょうか、素直な明るさに溢れています。自分が「勝ち組」として生きてきたことにこだわりがなく、「負け組」の人たちのことや、そもそも「勝負」の舞台にも上がれなかった人たち、医療者を「暗い目」で見つめざるをえない人たちのことなどはなかなか視野に入っていないようにも見えます。そんな彼らはまた、現在の医学の枠組みを肯定的に受け入れています。脳死−臓器移植についてのグループディスカッションで、それを善意に支えられた医療として「素朴に」肯定する学生が多いことにも驚きました。医師としての将来設計も、現在の医療・医学界のシステムを所与の前提としているようです(レールにいかに乗るかは考えますが、レールを変えることはあまり考えないようです)。「医学はこれでよいのか」「研究することの意味は何か」「医療・医師のしていることは権力的なことではないのか」「自分は医師になってよいのか」といったことを自問しながら医師になった身には、この素直さは眩しく感じられます。劣等生として生き続けてきた私のひがみといえばそれまでですが。
    「ノイズ」を意味あるものとして受け止め、「ノイズ」のほうに身を移し変え、その「ノイズ」の生まれたところに患者さんとともにい続けることは、自分が「する側」であることへの「おそれ」と「ためらい」、「正しい医療」「医療者の善意」を前提とする世界に生きていることへの含羞がないところでは難しいという気がします。

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