No.65
コミュニケーションは生まれるもの
日本画の展覧会に行ってきました。もともと、絵は得意ではないのですが、ある日エレベータの中で男性の清掃職員の方(委託職員)から、「宣伝なのですが、義理の父の展覧会で」と案内状を頂いたので、うかがいました。いくつかの大学の教育学部の教授を勤められ、叙勲もされている方の絵で、美的センスの乏しい私にも心惹かれる絵がいくつもありました。その2,3日後、いつも私の部屋を清掃してくださる初老の女性から「先生は、今回の、本人の同意なしの臓器移植をどうお考えですか」と尋ねられました。
それまでお話しをしたこともないのに、こんなふうに声をかけていただいたのはどうしてなのかと一瞬訝しく感じました。唯一の接点は、いつもこちらからご挨拶をしていることだけでした。でも、そんなことから声をかけていただいたのかもしれないと思いました。女性の方は、私の部屋に積んである小難しそうな本をご覧になっていたからかもしれませんが。
コミュニケーションは、生み出そうと努力して作り上げるというよりも、こんなふうになにげない積み重ね(ふつうのおつきあい)の上に、ふっと生まれるものだという気がします。コミュニケーションの教育と言うとどうしても肩肘を張ったものになりがちなのですが、自然なつきあいをきちんとすることなしには生まれないのだということを伝えられればと思っています。
「本人の同意なしの臓器移植が適切か」という問いに、私はうまく答えられませんでした。臓器移植が適切なものかどうかということ自体に、もっと議論すべきことがあるとは思っているのですが、臓器移植を肯定するのならば「この期に及んで」本人の同意があるかないかは必ずしも大きな問題ではないという気もしています。医療の場は「代諾」が溢れているのですから。ただ、「移植を待つ」ということは「誰かの死を心待ちにすること」であり、いっぽう「脳死」と言われた人にはそれから「肩身の狭い」生活が始まります。このような状況は知らぬ間に人の心を蝕むのではないか、そして私たちはそのことには鈍感なままであるのではないかと危惧していますので、その思いはお話ししました。
今年の研修医採用試験のグループディスカッションのテーマの一つに「『臓器が足りない』という善意の嘆きを、『脳死』と診断されてからも成長しつづけるわが子の傍らで、親たちはどんな想いで聞いているのでしょうか。」(田中智彦「生命倫理に問う」『メタバイオエシックスの構築へ』NTT出版 所収)という言葉を出題してみました。試験の場という特殊性もあるのでしょうが、「臓器移植は良いこと」と先験的に認めるところから語る人がほとんどでした。若い医師の多くが、現在の医学の流れを所与のものとして肯定的に受け止めていくだけだとすると、ちょっと未来が心配になるのですが。