東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.68

忘れられない9月 

日下隼人    今から41年も前のことですが、1969年9月13日、私のいた大学に機動隊が導入され、バリケード封鎖が解除されました。ベトナム戦争も激しさを増しており、全国の大学でバリケード・ストライキが行われている時代でした。でも職業教育校的色彩の強い医学部の闘争は、政治闘争であると同時に思想闘争でもありました。学生だけでなく若い医師たちも青年医師連合を作り闘いました。その闘争の中で「医学は何をしているのか」「医学は本当に患者のためになっているか」「患者にとって医学とは何か」「医学研究は患者を踏み台にした実験ではないのか」「医療が人間を治しても、その人間がどのような生き方をするのかを考えなくて良いのか」「患者さんが戻っていくこの社会はそのままで良いのか」「医局講座制は患者とは無縁の医師のための制度ではないか」「教授の封建的権力はこのままでよいのか」「医者の出世を第一に考えてよいのか」「博士号は出世の道具でしかないのではないか」「教授の権力を守り、医局の秩序を維持する博士号に意味があるのか」といった問いかけがなされました。そこでは、今日の「患者中心の医療」「インフォームド・コンセント」などに通じることが語られていました。医療のあるべき未来像を見越した思想に支えられた運動だったと思います。
   闘争の時期が過ぎ、このような問いかけが薄れてしまうことはやむをえないことです。もともと勉強好きの医学生たちですから、「研究は面白い」とか「研究には意義がある」と思う人はたくさん出てきました。「アメリカってけっこう良い国だ」「教授もほんとうは良い人たちだ」と感じる人も少なくありません。それぞれはその通りです。もともと優等生の人たちですから、「指導的立場」に立つことに抵抗がありません。人の上に立つことは、多くの人にとって快感です。学生運動の時代から、みんなを「アジる」(死語でしょうか)ことが得意なので、学会のボスになることも得意です。病院の経営者もいっぱい出てきました。教授になる人たちも出てきましたが、中にはあのころに批判した教授と同じような行動をとる人もいました。教授になるためには、批判していた博士号も取ることになりました。こんなふうに書いてきましたが、私は、そうした人の変化を少しだけ残念に思うことはあっても、責めるつもりはぜんぜんありませんし、それぞれの行動に「理」があることを認めています。ただ、運動に関わっていた人たちから、闘いの中での問いかけとその後の言葉や行動とがどのように折り合いがつけられているのかを少しは聞きたいとは思っています。
   この闘争の中で私たちの問いかけを受けて、博士号を取ることを断念した人もいました。大学を飛び出して、地域医療の担い手になった人は少なくありません。私のいた医科歯科大学では、機動隊導入を医局員たちに非難された当時の石原寿郎歯学部付属病院長が、9月19日そのことを苦に縊死されました。私は、多くの人の断念、あえて困難な途を選んだ人たちの想い、そしてなによりも一人の死を忘れずに自分の生き方を律したいと思い、生きてきました。私の学会とのお付き合いが希薄なのも博士号などと無縁に生きてきたのもそのためですが、患者さんとのコミュニケーションを考えるようになった出発点もあの闘いの中での問いかけにあります。

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