東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.70

患者理解 

日下隼人    「患者を理解する」という言葉が、特に看護の世界ではよく聞かれます。ケアをしていると、相手の気持ちが理解できていないと不安になりますし、不安になるとモチベーションが下がります。理解していないとかえって不適切なケアをしていることに気づかないままになってしまうこともあるでしょう。だからこそコミュニケーションが大切、それも言葉だけでなく・・・なのですが、ちょっと私は引っかかってしまいます。
   「他者理解」というのはずっと哲学の大問題ですが、他人の心は理解を絶したところにあるのではないでしょうか。まして、それが「病む」という最も個人的な出来事の場合、理解するということは絶望的なように私には思えます。それに、「理解してやろう」と迫ってくる人には、人はかえって心を閉ざすかもしれません。理解することはできないけれど、理解しようと努めて一歩一歩、人と人との間を詰めていくことがコミュニケーションだと言うことはできるでしょうが、それでも「理解しよう」という目が鬱陶しく感じられることはないでしょうか。
   「理解なんてできるはずがない」「理解できるなんて思っていない」けれど、でもどんなことがあっても逃げずにそばに居続けること、どのようなものであってもその人のありようを受け止めるという決意を持って、いつか「あれ、なにかわかった気がした」と感じるその日を心待ちにしてさりげなく接し続けていくというのではだめでしょうか。
   「他者の現在をおもいやること、それは分からないから思いやるんであって、理解できるから思いやるのではない。」(鷲田清一「聴くことの力」)
   「じぶんが言ったことが承知されるかされないかは別にして、それでもじぶんのことを分かろうと相手がじぶんに関心をもちつづけていてくれることを相手の言葉やふるまいのうちに確認できたとき、ひとは『分かってもらえた』と感じるのだろう。理解できないからといってその場から立ち去らないこと、それでもなんとか分かろうとすること、その姿勢が理解においてはいちばんたいせつなのだろう。」」(鷲田清一「臨床と言葉」)
   「わからない」「うまくいくかどうかわからない」という不安定な状況にじっと耐えてそばに居続けることがケアであり、そこに人と人との付き合いは凝縮しているのだと思います。「凝縮」なんて言わなくとも、付き合いとはそういうものです。恋愛はその典型かもしれません。患者の歩みに一歩遅れて、少し離れて、でも寄り添いながら歩き続けること。こちらのペースに「合わさせる」のではなく、相手のペースに合わせながら、でも少しずつ同じ方向に向けて両者がともに歩み方を変えていく。そうしている自分の姿・自分の思いこそ伝えられなければなりませんし、その思いを伝えるコミュニケーションは何気ないありふれた日常会話の中に息づくのです。それだけでは危険も不満もありうること、このような言葉が教育のシラバスや研究に乗りにくいことは承知していますが、それでもなおこの思いを伝え続けることがコミュニケーション≒ケアを考えるためには必須のことだと思います。


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