東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.71

「プロフェッショナリズムを語る」ことを考える 

日下隼人    医師のプロフェッショナリズムについての講演を聴きに行ってきました。「プロなんだから・・・しなければ」と私もしばしば言っていますし、「それでもプロか」と言いたくなる場面に出会うことも少なくありません。医療の世界で、このような議論がまだまだごく限られた人の間でしか行われていないというのが現状です。もっと多くの人の間で、もっと日常的に語られるべきことなのに。
   そう思いながら、一方で、私には自らの仕事を「プロフェッショナル」として「しゃっちょこばって」語ることに少し引っかかるところもあります。人は誰もが自分が携わっている仕事について「他の人の追随を許さない」熟達者=プロフェッショナルのはずですが、多くの人は自分のことをわざわざプロフェッショナルとして語ることはしていません。自らの仕事についてことさらにプロフェッショナリズムを語り、「知的専門職だ」「高い倫理性が求められる」「献身・倫理性・社会正義」と声高に語るということにはエリート意識・優位者意識が孕まれているような気がしてしまうのです。「それでもプロか」と批判される場合でさえ、この言葉がどこかでその批判されている医師の傲慢さをくすぐるということはないでしょうか。
   自分の仕事について、社会的使命が厳しく問われる崇高な仕事・特別の仕事だと語る医師の姿に、反発する人もいるのではないでしょうか。自らの持つ「力」の強さ・怖さ、社会的優位性の意味することについては語られないまま、使命が真剣に語られる時、そこには危うさも危なさも潜んでいるはずです。「そんなふうだから、医者を信じたくない」、そんな「白衣の人間が好きになれない」と感じる人もいるのではないでしょうか。少なくとも、医師の「真摯な」態度が、かえって人を傷つけ、新たな溝を作ることもありうるということを忘れないでおきたいと思います。
   プロフェッショナリズムなどと言わなくとも、自分が職業として接する相手の人が求めることにきちんと応えることが、どのような仕事をしている人にも求められることだ、というので十分な気が私はしています。そのことは、相手の人に満足してもらうことであると同時に、自分が自分の仕事に満足することでもあります。「職人気質」という言葉のほうが私にはしっくりきます。以前にも書きましたが、患者さんへの「義理」をきちんと果たすことがプロフェッショナリズムだと私は思います。医療の「倫理」とは、患者さんに対して「義理を果たす」=「仁義を守る」ことです。だからこそ、「仁義が守られていない」と感じたときに、「それでもプロか」と言いたくなるのです。
   倫理の基礎に必要なのは「常識」(共通感覚、common sense)です(和辻哲郎の言葉を自己流に使っています)。自分が関わる人と常識的な人間関係を保てる人は倫理的な人なのです。常識的な人間関係とは相手の人を尊重する人間関係であり、医療の場では患者さんと「ともに生き、ともに悩む」姿勢だと思います。その姿勢を伝えることがコミュニケーションです。
   コミュニケーション教育を技法として、「患者と良い関係を作る(良い関係は生まれるものなのに)」「患者の行動変容を促す」と考えてしまうこと自体、患者さんを自分の操作対象として見下ろすことにつながります。E.レヴィナスは「他者は、『受け入れよ』『与えよ』という二重の倫理的命令を伴って出現する」のであり、他者は「常に私を超える存在であり、私に侵入してくる存在であり、その侵入を自らの人生において私たちは引き受ける」のだ。「他者は『他者が出現する』という事実そのものによって、すでに私たちを倫理的な実践のうちに巻き込んでいる」と言っているそうです(内田樹さんの受け売りです)。
   とすれば、倫理的姿勢を保つこと=「義理を果たし」「仁義を守る」ことは、「謙虚であり続けること」と「誠実であり続けること」に尽きると思います。



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