東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.73

ペースのずれ 

日下隼人    この10年あまり担当している研修医のオリエンテーションでは、「きちんとした服装」「礼儀正しい言葉遣い」などについて繰り返しその意味について話していますし、SP演習などで体験もしてもらっています。それでも、研修が始まってしばらくすると、一人二人と、白衣のボタンを止めずにだらしなく着る人が増えてきます。だらしない歩き方の人も出てきます。救急外来で、典型的な「上から」の言葉遣いをする研修医を見るようになります。指導の仕方にも指導する者(私)の人間性にも問題があるのだとは思いますが、研修現場での先輩の姿や言葉の影響も小さくはないでしょう。
   でも、このことには仕方がない面もあるという気がします。医師の1年目・2年目は、医師の一生の中でもっとも急速に成長する時です。人の1歳・2歳が一生の中で最も急速に成長するのと同じで、ゼロからの出発なのですから成長が急なのは当たり前と言えば当たり前のことです。知識や技術が増えると自分が大きくなった気がします。「勉強ができることが大事」という思いは、私たちみんな(この「みんな」は、医者だけではなく私たちみんなです)の心に滲みついていますから、そう感じるのはやむを得ないことです。知識のない患者さんとの距離はどんどん開いていきますから、患者さんのことがどんどん小さな存在・無知蒙昧な存在に見えてしまいます。自分は一生懸命仕事をしていますから、その自分のペースと合わない人間がいれば、その相手の方に問題があると感じてしまいます。
   知識や技術が急速に増えるペースは年とともにゆっくりになりますが、人生の経験は年をとるほど成長が加速します。研修医の時期はいくら頑張っても(それまでいろいろ苦労していたとしても)ゆっくりしか「人生の知」は身につきません。若い医師の知識が増えるペースに、人生を知るペースは追いつないどころか、距離は開くばかりです。人生のことは見えないままです。知識が増えるペースとは自分がだんだん大きく見える過程であり、人生を知るペースとは自分がだんだん小さく見える過程です(そうでない人もいますので、期待も込めて書いています)。これで、「傲慢になるな」「上から患者を見るな」というのは「無いものねだり」なのかもしれません。ここに深い溝が横たわっています。
   60歳を超えてみると、その年にならなければわからないことがあることを知ります。60歳を超えても、80歳のことはわかりませんし、40歳で病に斃れた人の人生は私には永遠にわかりません。「勝ち組」(というのが医者に対する世間の一般的認識ですし、雑駁ではあっても社会的にはこのようなまとめ方はそれほど的外れではないでしょう)が「負け組」の気持ちをわかることも至難のわざです。「負け組」の人にとって「勝ち組である医師」の前に座ること自体が悔しいことですが、その気持ちは「勝ち組」の人間には見えません。病むこと自体に避けがたく「負け組」に入る感覚があり、そして「老いる」ことにも同じ要素があります。
   時が経ち、若い人たちが人生の経験を積むまで待つしかないのかもしれませんが、それでも彼らに、このペースのずれが私たちを傲慢にしてしまうこと、その結果の絶望的な溝をまたいでしか医療は存在しないこと、患者さんはこの溝の前にいつも立ち竦んでいること、そして、そのしわ寄せのほとんどは患者が甘受し患者さんが私たちの方に歩み寄ることで解決しているということに気づいてほしいと思いますし、気づくためのきっかけは語り続けたいと思っています。溝を超えて「こちらに来させる」のではなく、私たちが溝を超えようとすることが必要なのです、たとえその溝に私たちが落ちる危険があっても。
   どのようにしても自分にはわからないことがあることを痛切に自覚し続けることが「謙虚さ」の原点です。コミュニケーションの教育とは、コミュニケーション不可能性についての教育を行うことでもあるのだと思います。



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