東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.75

言葉の表情 

日下隼人    人のことを日常のささやかな所作で判断するように私がなってしまったことを前回書きましたが、その続きです。書店で本の上に自分の鞄などを置いて本を立ち読みしている人がいます。それも哲学書のコーナーだったりすると、このような人がどんなに「立派な」ことを言っても信じないでおこうと私は思います。他の人がこれから手に取るであろう本を大切にせず、鞄の下にある本をいま読みたい人への配慮を欠く姿勢に、その人の哲学が表れています。「哲学書」をたくさん読んでいる医者が患者さんのことを「させる」と言っているのを聞いて、「哲学が暮らしの中に生き続ける」ことは難しいのだと感じたこともありました。
   先日ラジオで「改札に切符を投げつける落語家の弟子は、同じことをする」という話を聞きました(現在の東京では、ほとんどの改札口が自動化されていますので、このような光景は過去のものになってしまいましたが)。病院の面会案内のボックスに面会証を抛り投げて返す人を見かけることも少なくありません。指導者・先に生きた者の行動の方が、言葉での指導よりも「教育的効果」は大きいのです。昔から「後姿を見て育つ」と言われてきましたし、医学教育のワークショップでも「こんな方法よりも『後姿を見て育つ』ことの方がだいじだ」と言う人がいます。その通りだと私も思うのですが、そう言う人が「自分の後姿が後輩の範たるに値するものか」と自問しているでしょうか。日常の立居振る舞いほど、悪い「癖」を伝えてしまうことになりがちです。
   医療者には「上から目線」が染みついています。自分が「上」だと感じる人は、「下」の人の前でどのような振る舞いをしても咎めだてされません。だからこそ、ぞんざいな言葉遣いもできますし、だらしない服装や歩き方もできます。言葉遣い、相槌のような言葉の端々、聴くとき・話すときの姿勢・態度・表情。そういったものが合わさって、言葉の表情が生まれます。相手を見下ろしていない言葉の表情に出会うことは、残念なことに多くはありません。
   もう35年も前のことですが、当時の日本赤十字中央看護短期大学(現・日本赤十字看護大学)の1年生の演習に呼んでいただきました。きっかけとなった文章は、私が初めて医療系の本(雑誌「看護教育」)に書いたものでした。多くの人前で自分の考えていることについてお話しするのも初めてのことでした。演習は、私の文章をもとに学生たちがディスカッションし、そこでの質問に私が答え、最後に少しお話しもするものでした。2回にわたっての演習が終わって数日してから、演習に参加していた若い教員からお手紙をいただきました。もちろん、私にとって初めての講演後の感想です。お手紙には、授業前に医師が看護の本に書くことへの違和感があったこと、しかし授業での学生の質問に答える私の姿勢にその違和感が薄れたと書かれていました。きっと、私は質問に対して十分には答えられてはいなかったでしょう。けれども、彼女は、私の答えた言葉によってではなく、学生の質問を「正面から受け止めて丁寧に答えている姿を見る」ことで違和感が薄れたと書いてくださいました。語られた言葉=文字ではなく、言葉の表情で人は判断されます。今の私が答えたら、言葉はあの頃よりまとまっているでしょうが、彼女の違和感は消えなかったかもしれません。最近では講演させていただく機会が多くなりましたが、あの時いただいた手紙はずっと私自身への戒めになっています。




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