東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.77

ふだんのくらしの感覚 

日下隼人    悪性リンパ腫の少女が、具合の悪い状態が続くある日の夜、どうしても床に寝たいというので、床にカーペットを敷き、その上に布団を敷くことにした。彼女の傍らに腰を降ろしてみると、部屋の様子が全く違って見えることに気がつく。靴をぬいで腰を下ろすと、柔らかな空気が流れ、肩の力が抜ける。土足で歩く床のうえに置かれたベッドに病者が寝ている光景は、少なくとも日本的ではない。多田道太郎は、床の間の掛軸や生け花を介したメッセージのやり取りが日本にはあると言う(「しぐさの日本文化」)。部屋に横たわり、自然の風にあたり薫りを味わい、風景を見て、親しい人と時を過ごす。履物を脱いで畳の上であぐらをかき、ついには大の字になって寝転んでしまうと一番おちつくというような、この国の普通の人のふだんの暮らしの感覚を保つところでしか生まれないコミュニケーションがあると思う。
   「入院をめぐるさまざまな状況、局面は、・・・日本の文化、社会、およびそこに関わる人々の間の人間関係を鮮明に浮かび上がらせる。日本の文化、社会を十分に理解せずしては、入院に関しても真実を捉えた解明がなされ得ない」(大貫恵美子「日本人の病気感」)  病者の枕元の花が乱れていればなおし、しおれかかっていれば水を替え、整える。病室にかかっている絵のちょっとした傾きを気遣う。手を伸ばせば届くところにコップを置く。外の空気が好きそうなら、窓を開ける。大声や大きな足音は立てない。病者と親しい人との出会いの時間を大切にする。こうした気配りは環境整備と言われることに含まれるのだろうが、この環境とは暮らし向きの環境(=生活感覚)とでもいうようなもので、それは病者の日常生活・日常感覚を大切にしなければ見えてこない。
   それを可能にするのは、私たち自身の日々の暮らしの中の手触りを大切にすることである。散らかり放題の家に住んできたら、病者の身のまわりをすみずみまできれいに整えることはうまくできない。花を愛してこなければ、花がしぼんでいても放っておいてしまう。春風の暖かさに心が弾んでこなければ、窓を開けようと思わない。いつも大きな足音で歩いていたら、病院でだけ静かにすることに気が配れない。友人との会話で、言葉を丁寧に使わなければ、病者への言葉は雑で固いものとなる。医療者自らの暮らしをていねいに、その重さの手ごたえをしっかりとうけとめ、洗練していかなければ、他人のQOLなど見えるはずがない。
   病者の身のまわりの汚れへの、花や風への、音への気配りに、病者は見守られていることを感じとる。そのように気を配れる人だからこそ、病者はその人に心を開く気になるのではないだろうか。ふだんの自分の暮らしのなかで、この国の暮らしの手触りや季節感といったものを大切にする人でなければ、その人に話してもわかってもらえないだろうと口をつぐんでしまうこともあるかもしれない。さまざまな技術、そして身のまわりへの心くばりから始まるふれあいを通して、一人の人間として「この人になら」と思ってもらうことからケアが始まる。
   「この病院がのびのびした感じでいいなと思ったことはね、夜眠れない子どもがいると、看護婦さんがナースステーションにつれてきて、相手をしたりするでしょう。それで看護婦さんが記録を書いている横で、子どもは子どもで絵を書いたりしているのがなにかいい感じでした。それからラウンジに誰も見ていないテレビがつけっぱなしになっていたりしていることがあって、『あーいいな』ってホッとしたりしました」とある母親が言ってくれた。誰も気がつかず消し忘れただけでつけっぱなしのテレビ、仕事をしているオトナのそばで子どもが勝手に自分の好きなことをしている光景。ラウンジで母親と子どもが一緒に食事をしている、家族や親しい人の誰かがそばにいてくれる。家庭でなら日々見かける、ありふれた光景。日常的な光景だからこそ人はホッとする。ホテルのように華やぐのではなく、もっと所帯じみたありふれた、それゆえになにかホッとすることがひとつでも多い病院であれば、入院するということ、病院で最後の日々を過ごすということがいくらかでも救われるかもしれない。

   当院の職員の対応が「ロボットみたいだ」という投書を見て、かつて書いた文章を引っ張り出してみました。




▲コミュニケーションのススメ目次へ戻る        ▲このページのトップへ戻る

 

プライバシーポリシー | サイトマップ | お問い合わせ |  Copyright©2007 東京SP研究会 All rights reserved.

無題ドキュメント