東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.78

上から話したくない 

日下隼人    「『上』から、人に話したくない」というのは、私の好みの問題です。高校生のころ、「上から目線」で人と接して失敗して以来、意識してそのような立場を避けるようになりました。学生運動で「アジテーション」をしているときでも、私は「自分はこうしたい」と話していました(「君たちは、こうすべきだ」とは言っていなかったと思います、絶対に無かったとも言えないけれど)。初めのうちは意識的に避けていたのですが、そのうちに「上から話したくない」「大状況から話したくない」という感覚が染みついてしまい、そのように話すことができなくなってしまいました。その結果、副院長として話さなければならないときでも、頼りないものだったり,雑感のような話になってしまったりしています。
   あるコミュニケーション術について、「コミュニケーションから医療を変革する」ことが目標であり、この技法を用いると「初めて出会う人でもすぐにラポールをとることができ、短時間で本当に信頼関係が築け、短時間で相手のことをより深く理解することができる」と言っている人がいました。このような言葉に込められた、どこか自分が正しい位置にいるような感覚も私は苦手です。自分が正しい位置にいると思うと、上からの言葉を話してしまいがちです。それに、「短時間で深いつきあいができ、相手が理解できる」という、なにか通販の商品のような感じにひっかかりました。行ったり来たりする手間と時間がかかるつきあい。「相手が理解できない」ところにとどまるつきあい。そんなところからしかたどりつけない「深い」つきあいがあるのではないでしょうか。(念のために申し添えますと、同じグループの人で「そのような便利なツールとしての見方をすべきではない」と言っている人もいました。)
   大状況といえば、最近の医療では、ガイドライン、クリニカルパスなどによる医療の標準化が薦められ、進められています。大病院と地域の医療機関とが連携して継続的に診療にあたる仕組み(医療連携システム、ネットワーク)が作られ、患者さんが療養場所を移動させられることで、どんどん入院期間が短縮されてきています。医療経済の面からも、これはもう仕方のないことなのかもしれません。もう患者さんは「上から」組み立てられたこの流れに乗るしかなくなり、ベルトコンベアに乗せられて修理されるかのようです。「一人ひとり」の小状況は、消去されるべきノイズでしかありません。
    この流れは、EBMに代表される医学的なデータ、医療経済・保険や年金制度についての数字、医療安全の理論といったものによって支えられています。こうして、人は科学や社会に規定された生をいやおうなく受け入れて従うことでしか、生きられなくなります。M.フーコーは、このように人を生かす力を「生権力」と言っています。生権力は、その支配を受ける人のほうから、その支配をうけることを求めていくような管理です。健康番組も、「生活習慣病」も、「賢い病院のかかり方」も、「二人の主治医(病院の医師と近くの医師)を持つこと」も、「生権力」を強化します。気をつけないと医療コミュニケーションも、患者さんがこの流れを受け入れやすいように働きかけるだけのことになりかねません。フーコーの「顔色をうかがいながら」医療コミュニケーションを実践していきたいと思っています。

    「生権力」=近代の権力は、人々の生にむしろ積極的に介入しそれを管理し方向付けようとする。具体的には2つの現れ方があり、1つは個々人の身体に働きかけて、それを規律正しく従順なものへ調教しようとする面である。学校や軍隊において働くこの種の権力は「規律権力」とも呼ばれる。もう1つは、統計的な調査等々にもとづいて住民の全体に働きかけ、健康や人口を全体として管理しようとする面である。こうしたフーコーの権力論は、近代を、個々人を巧妙に支配管理する権力技術が発達してきた時代として捉えるものだった。
(西 研 による)




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