日本赤十字社本社での研修医研修会で、災害救護についてのシンポジウムの司会をすることになりました。発表者である研修医たちの中に、学生時代に私の外来を見学に来てくれた人がいました。素晴らしい発表に感心し、懇親会でも話が弾みました。
私のいる病院には多くの学生が研修医採用のマッチング試験を目指して、見学に来てくれます。小児科を見学する人には、午前中私の外来を見てもらうことにしています。そこで、外来診療を見てもらいながら、コミュニケーションについてのお話をしています。もちろん、中にはそのような話には興味がないという感じの人もいますので、そのような時には話を減らしてしまいますが。
たまには受験と関係なく「私の外来を見てみたい」と言って来てくれる人がいたりします。以前にも書いたことですが、「OSCEのようにする診察を初めて見ました」と言ってくれる人は少なくありませんし、先日は「おもてなしの心を感じた」と言ってくれた学生もいました。学生のほうが「年寄りをおだてる」ツボを心得ているのかなとも思わないではないのですが、それでもそのような時にはついついたくさん話してしまいます。
見学にきてくれた学生のうち、当院を受験する学生は半分程度ですし、実際に当院で研修することになるのは受験生の15人に一人くらいです。ですから、今回のような出会いがまれにはあるにしても、ほとんどの人との出会いはこれっきり、文字通り一期一会なのです。「今しかない」と思ってお話ししていますが、だからと言って眦を決したような話し方をされては言葉が耳に入らないでしょうから、なるべく楽しい雰囲気になるようにしています。お話ししている内容が学生の心に残る可能性はわずかしかないのだろうと思いながらも、この人の10年後20年後に言葉のどれかがポトンと落ちる(その時、はじめて「共鳴する」ともいえるかもしれません)と良いなと思います。それは「祈り」です。(祈りについては81でも書きました)
教育もコミュニケーションも「祈り」なのではないでしょうか。だから、聞き届けられることもありますが、届かないことのほうが多いのです。教育=人に自分の思いを伝えるということは、「効率」の悪さを覚悟することだと思います。効率よく成果を上げる教育を目指すことは、祈りとは正反対のことです。祈る心でしか伝わらないことがあるはずです。
来年3月に私は定年退職を迎えます。「上から目線」の交錯する世界から抜けられると思うと嬉しいのですが、このように医学生たちにお話しする機会がなくなること、実習の看護学生とケアを語る機会がなくなることだけは、寂しく感じています。(2012.2)