東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.103

エールを送る

日下隼人    重い病気になると、昨日まで親しかった風景はよそよそしいものになります。自分の周りに壁ができます。時間の感覚もそれまでとは全く違ってしまい、止まったように感じたり、急に進み出したりします。昨日まで気にならなかった言葉が、全く違う意味を持ってしまいます。他人の表情もなにかの物音も、意味をもつものすべての意味が変わってしまいます。周りの人・ことがわからなくなります。元気そうな人は別世界の人であり、見るだけで悔しい。自分の身体が災厄の源と感じられ、よそよそしいものとなり、無力感に包まれ、受け身にならざるをえません。「どうして自分だけがこんな病気に」「どうして今なの」「これまでの人生は何だったのだろう」「これからの人生はどうなるのだろう」、様々な思いが巡ります。アイデンティティは根底から揺るぎます。つらいだけでなく、悔しい。歯がゆい。
   人生経験の乏しい私たちが、このような人たちと付き合うのが医療の現場です。そんなことが可能なのでしょうか。「苦悩する者としての患者は、医師に対して何らかの形で優れている」(V.E.フランクル「死と愛」)のに。
   こんなことを考えたのは、毎年この季節、とても優秀なのに医師国家試験に不合格になってしまう医学生がいるからです。彼らは、この病者の思いとどこかで通じた思いを抱いているのではないでしょうか。101回から104回までの医師国家試験委員として問題を作成していた経験からも、このようなことがあり得ることはわかってしまうのですが、それだけに試験のあり方を考えなくてよいのかと思います。次の試験は1年後ですし、当事者は様々なつらい思いをしているだろうと考えると、言葉がなかなか出てきません。
   でも、でも、この体験をしたこと一つだけで十分、この人たちは良い臨床医になるパスポートを手にしたと心から思います。ここで思い悩んだことは、これから医師として患者さんとつきあう人生において、圧倒的なアドバンテージとなります。1年間足踏みしているのではありません。この1年間の「旅」は、簡単には手に入れることのできないパスポートを得るための代えがたい時です。当事者には今はわからないでしょうが、この1年は、これまでの私の医師としての時間全部(40年)よりも深いものだと思います。
   M.エンデの『はてしない物語』の中で、幼ごころの君はその国の危機を救う少年アトレーユに言います。「ファンタージェンにきた人の子たちはみなこの国でしかできない経験をして、それまでとはちがう人間になってもとの世界に帰ってゆきました。かれらは・・・目を開かれ、自分の世界や同胞もそれまでとはちがった目で見るようになりました。以前には平凡でつまらないものとばかり見えていたところに突然驚きを見、神秘を感じるようになりました。」
   本屋のコレアンダーさんは、ファンタージェンの中に飛び込んでいった主人公の少年バスチアンに言います。
   「絶対にファンタージェンに行けない人間もいる。いけるけれども、そのまま向こうにいきっきりになってしまう人間もいる。それから、ファンタージェンにいって、またもどってくるものもいくらかいるんだな、きみのように。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ。」

   子どもと関わる仕事を生涯の仕事としたいと思い教育学部進学が第一志望であったのに、半ば不本意に医学部受験をした私は、その後小児科医になり、紆余曲折を経て、医学教育に関わることになりました。小児科医として子どもたちやその家族とつきあううちに、そこで学んだことを後から来る人たちに伝えたいと思うようになったからです。そして、この10年あまりの医学生や看護学生、若い医師とのお付き合いは私の人生を豊かにしてくれましたし(「コミュニケーションのすすめ」に書いてきたことの多くは教育に携わらなければ気づかなかったと思います)、教育に関わる仕事をしたいという初志をかなり満たしてくれました。途はめぐりめぐってつながることになっているようですし、そもそも人生に「回り道」などというものはないのです。とりわけ病む人とつきあっていくこの世界で生きていくためには、回り道のように見える道がきっと王道です。
   これまで出会った若い医師や医学生は私の恩人であり、彼らへの感謝の思いを次の世代の人たちに「お返し」していくことが私の務めです。若いのに私よりもはるかに深い人生を歩き出した人たちを、私はただ驚嘆しながら見守ることしかできませんが、心からエールを送り続けています。(2012.4)

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