東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.104

入院というファンタジー

日下隼人    見学に来た学生が「子どもの病気は不条理だ。それを助けたいと思う」と言います。確かにね。でも、子どもが病気になり入院することは、不条理だけではないと思います。「ファンタジーを読んでワクワクしたら小児科医になっても良いかもね」と私。
   子どもたちにとって病気で入院して過ごす時間は、それまでの日常とは全く別の世界に生きる時間です。死の影は子どもにも生を問いますし、生がまだ短くきゃしゃなぶんだけオトナ以上に子どもは翻弄されるかもしれません。子どもたちにとって、入院で体験するこの非日常的な時空を生きることは異界(それは冥界に通じる)を翔け抜ける時空です。死の影を感じ取らなくとも、非日常的な時を過ごすということが、どこかで死と通じあっています。だから、病院を縦横に走り回る子どもたちは、生死の境界を遊泳してもいるのです。その遊泳中に彼岸と此岸を往き来し、それゆえこの入院をとおして彼らは生まれ変わります。
   入院とは、子どもにとっては異次元空間=ファンタジーの世界に入り込む体験です。ウサギを追っかけているうちに別世界に通じる穴に落ちるかのように、かくれんぼで入った衣装箪笥の奥から別世界に突き抜けてしまうように、子どもたちは病院という世界に紛れ込みます。その世界でも、同じ言葉が通じ、テレビも見られます。でも、いつもと体調が違い、さまざまな痛い検査や処置に満ちた、そして周囲のオトナがこれまで見たこともないような心配りをして特別扱いしてくれるお祭りのような時間。子どもたちは、病気になり病院にきたときから〈魔法の世界〉(高辻玲子『魔法の世界の子どもたち』講談社)を生きだすのです。この〈魔法の世界〉は、オトナの世界の合理性や科学的論理、これまで子どもたちが暮らしてきた、しきたり、秩序や枠づけといったものとは異なるルールに支えられる時空です。私の目の前の子どもは、私の暮らしている世界とは別の世界の中を歩きだします。本田和子は、病気の「子どもたちが、いかに日常の呪縛から逃れて別の時空に生きつつあるか」と羨望のまなざしを向けています(『異文化としての子ども』紀伊国屋書店)。
   ファンタジーの世界ですから、白衣を着た魔法使いや魔女がウロウロしています。治療という名の斧で追い立てられます。おとなの気に入らない子どもたちには、「問題児」という矢が浴びせられたりします。子どもたちを、ある枠の中に閉じ込めることを生きがいにしているかのような魔法使いもいます。子どもたちの親を食べる魔法使いもいて、親たちはしばしばとても傷ついていますし、そうでなくてもいつも親たちは魔法使いに頭を下げています。そのような親の姿を見るのも、この世界ならではのことです。だからこそ、子どもたちの夢は広がります。子どもたちの生は、病いをとおして広がります。異次元の世界に生き、常ならぬ時間の中を生きぬいて、その楽しさ(そして怖さ)を体験することが、きっと将来のために一番大切なのです。そのとき彼らは、この病院というファンタジーの世界を、登場人物として遊泳しているのです。否応なく私たちもファンタジーの登場人物になっているのですから、ファンタジーの世界にいることに開き直って、その世界を楽しめばよいのです。そのとき、私たちの世界も広がっていきます。
   退院とともに、子どもたちはこの異界からまた元の世界に戻ります。その時、タイムスリップしてもとの時間と生活が再び始まります。きっと、ほんの一瞬前までそこにいたかのように、入院前の自分と退院してからの自分がつながります。とぎれていた日常性はなにごともなかったかのように戻り、病院での生活はすぐもやのかなたのようにおぼろげなものとなり、私たちのことはまもなく忘れ去られます。しかし、そこで彼らは入院する前と全く変わっていないということではありません。半音階だけ転調した曲がもとの曲と同じではないように、なにかが変わっていきます。病院で過ごした時間のことを忘れてしまったとしても、病院で過ごした経験は心の底では消えません。入院という魔法の時空の中で生きる子どもたちの世界は、発達を直線的に上昇していく過程とみれば一時的停止かもしれませんが、その非日常的な時間を「楽しく」生ききることで、子どもの世界が水平方向に大きく広がり、その生が多重性を獲得していくという意味では、大きな展開であり発達なのです。

   子どもと接するかぎり、避けがたく子どもたちを傷つけざるをえないのが私たちオトナです。「子どものためになにかをしよう」と考えるよりは、子どもたちのためになにもしないでおこう、子どもたちのためにしないでおけることはなんだろうかと考えるほうが、魔法の世界に生きる子どもたちにふれあう可能性が少しは大きくなります。子どものことを“わかろう”なんて思わないで、ただ呆然と、時には感心して、また楽しんで子どもたちを見ていられるオトナでありたい。
   どこからか“悪い子”というような言葉が投げかけられた時に、防波堤になるということだけを心がけていたい。どんな時でも、子どもたちのことを悪くいう人はいるのだから、受持医くらいは、子どものことをどんなことがあっても悪くいわずに、徹底してその子どもの弁護人であり続けたい。子どもの良いところを見つめ、信じていくのは親バカです。子どもを信じて裏切られることもあるでしょう。それでも、子どもを上から見下ろし、評価していくよりは、楽しい人生が開けます。もともとオトナは、いつか子どもに「裏切られ」、見捨てられ、置いてきぼりにされる宿命なのですから、私たちも親バカの心から出発するという選択肢があると思います。
   身体症状がそれまでの生活の息抜きになっているとしたら、十分に息を抜いてもらい、思いっきり羽根を伸ばして自由を満喫してもらいたい。その体験がいつの日か、その子どもの遠い未来に孵化することもあるでしょう。
   彼らが甘えてきたら、それに応えたい。つらい時に甘やかしてくれる人に出会えたという体験が、その人が別のつらい人に出会った時に優しくできる原動力になるということはありえます。面白いオトナがいたなと感じてもらえるような入院生活にしたい。その子どもの今のありようを認め、受け入れ、黙って見つめているオトナと出会えたと感じとってもらえたら、そんなオトナになってくれるかもしれません。私たちの出会いを未来につなぐのは、そのことを措いてないのです。
   私がその子どもの心の中に残るとき、私は永遠の生命を手に入れてもいるのです。 (2012.4)

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