No.11
最近気になっていること
患者からの投書や提言(クレーム)を絶えず聞いているために医療者が被害者意識にとらわれてしまうことは、やむをえないことです。特に、直接対応する当事者や管理者がそうです。しかし、現在は被害者意識・防衛的姿勢にとどまるのでなく、そこから患者を攻撃する姿勢への転換がジワッと進行しているようです。クレイマーとしか言いようの無い人、好訴性人格障害の人、ボーダーライン・パーソナリティなのだろう思わされる人は間違いなく居るのですが、その人たちの言うことへの反感が、その「人」への反感として渦巻いてしまうため、無媒介的に一般の患者にも敷衍されつつあります。
以前から医師が持っている「患者を見下ろす姿勢」が完全に払拭されているのならともかく、見下ろす姿勢を保ったまま、投書や提言に対して反発/非難/攻撃するような言辞が聞かれるようになりました。それどころか、投書や提言を通して「患者を見下ろす姿勢」が強化されているかのようです。患者の言葉を軽視/無視/非難する言葉や人柄を攻撃するような言葉の闊歩、まずは「訴えてきそうか」「金を請求してきそうか」「ややこしくなりそうか」「この人はいつまででも責めてきそう」と言うところから始まってしまう議論。たとえその判断が正しいものであっても、それは間違いなく退廃の進行です。
医療者が耐えている以上に患者が耐えていること、一人の「クレーマー」の後にさえも多くの同じような想いの普通の人がいることなども、だんだん見失われていくようです。
また、医療や教育といった「聖職」といわれる職業の人への患者の「屈折した思い」は、医師には想像がつかないでしょう。
安永寿延は、キリスト教における黒ミサ、戦中や軍隊における天皇に対する卑俗歌の例を挙げて、「聖なるものへの凌辱」を大衆の本能的生理と指摘し、「それは固定され、凝縮した正統性、聖化されたものへの反発であり、規制のハレのケ化である。大衆が疎外されていればいるほど、それだけ聖なるものへの冒涜も直接的であり、粗野である」と指摘しています(「日常性の弁証法」)。「権力」を持つものへの反発も同じでしょう。女教師・女医・婦人警察官が、ポルノ映画の題材になるのも、同じような構造からだと思います。
自分の身体のことが自分にはわからず、その「扱い」を他人に全面的に委ねなければならない(しかも頭を下げて)人間の「悔しさ」(それは心の奥でひそやかに燃えていて、本人も気がついていないことが殆どです)を私たち医療者はわかっていないのです。その悔しさと、病むことで自分の人生が「狂ってしまった」悔しさが複合して、病者に迫ってきます。きっかけがあれは、その思いは発火し、黒い火が渦巻きます。その火を、警察力で抑えることはできるでしょうし、そうせざるを得ないことは間違いなくあるけれど、そのとき、「聖なる」権力は国家権力と結合し(もともと、それが本質だと思う。M.フーコー「監獄の誕生」)ねじ伏せられた人の恨みは倍になり、次の機会にもっと容易に発火してしまうでしょう。
「先生ってやつほどくだらん奴もないね。ありゃ手配師だよ。生徒がいなけりゃおまんまのくいあげだっちゅうのに、えばりくさって。子どもを食いものにしてるんじゃねぇか」(野本三吉「不可視のコミューン」)医者も同じです。今風に言えば、どうみても医師は「勝ち組」です。病気になるということ自体「負け組」なのかもしれませんが、さまざまな理由により、人生の「負け組」として生きてこざるを得なかった人にとって、病気になって再び「勝ち組」に頭を下げなければならない事態も「悔しさ」を増幅させるでしょう。「勝ち組」の尊大な物言いが、また「悔しさ」を増幅します。このような視点から、患者-医師間のコミュニケーションが語られることもないと思います(海原純子「こころの格差社会」)。最近の講演では、かならずこの話−「患者さんの悔しさを知ってほしい」という話を入れています。患者の暴力はたしかに問題ですが、「医療行為そのものが人間存在に対する暴力的な行為であるということを忘れないで」と言いたいのですが、とても通じそうにないので、そこまでは話さずに終わることも少なくありません。
聖職、神聖といった「聖」のつく言葉は要注意で、そこには何か胡散臭い、危ういものがあるのだと思います。「神は死んだ」かもしれないけれど、教師や医者という「神」はなかなか死なないようです。私たちの関係が人々のそのような思いの上にあるという自覚をもたず、「人のために働いている」という傲慢な自覚により自己のすべてを免罪化してしまう医師が、患者の言動により被害者意識を増大させている現状には、かなり絶望的です。