東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.113

「無念さ」とつきあう仕事

日下隼人    今年も研修医の採用試験が終わりました。来年は定年なので、これが最後の試験です。
   いくつもの小論文で「医療を施す」という言葉に出会い、こんな言葉が学生の中にまだ生きていることに驚きました、「提供する」という言葉を学生が使いこなすのは難しいとしても。「させる」「ムンテラ」といった言葉は面接でも頻繁に出てきました。このような言葉が大学でいまだに氾濫していることの表れなのでしょう。
   採用試験のグループディスカッションでは、ある文章を提示して、その内容について話しあってもらうのですが(2012年出題の1例:「『妊娠中に被爆すると、胎児に悪影響を及ぼし、奇形や染色体異常の子どもが生まれてくるから、放射性物質をまき散らす原発には反対である』という意見があります。でも、この言葉の底には、すでに障害を持って生きている子供たちを忌み嫌う意識があるのではないでしょうか。」野崎泰伸「生を肯定する倫理へ」)、例年必ず「著者の言っていることは違うと思います」と言い出す学生がいます。その意見に違和感があるにしても(あって当たり前の問題を出しています)、真っ向から相手の意見を否定するのではなく、著者の言っていることをひとまず認めて、どうしてこのように考えたのかを著者の気持ちに添って考えてみようという発言はあまり聞かれません。このような学生に限って、論文では「患者さんの心に寄り添った医療をしたい」などと書いています。その齟齬に気付かないということは、「寄り添う」という言葉が観念的にしかとらえられていないのでしょう。観念的にしかとらえられていない言葉は、現場の嵐の中でどこかへ飛んで行ってしまうものです。 私は今でも医者にならなければよかったとしばしば思います。人の死にあまりにも近すぎ、人の死を職業的に見てしまい、どうしても人の命・人の生きることを軽く語ってしまう世界に、私は今でもなじめません。そのような感性を摩耗させてしまう世界に身を置く怖さを若い人たちにどうしたら伝えることができるのか、私はかなり悲観的です。若い人たちがそのことを分からないのは当然ですし、感じないまま年を経てしまった人を見聞きすることのほうが多いのが現実ですから。採用試験をしながら、若い人たちがこの世界で生き出すことを手放しで喜べないのはそのためです。

   「『老いる』というのは『精神は子どものまま身体だけが老人になる』経験のことだった」と内田樹さんは書いています(「街場のマンガ論」小学館)。私の感じで言えば、記憶に残るすべての経験は昨日のことのように感じます、たくさんのことがとっくに記憶から消えているのも事実ですが。老いることも病むことも経験しなければわかりません。「他者の立場になれるということ、これをおいて道徳の基本はないとおもう」と鷲田清一さんは書いていますが(「噛みきれない想い」)、病むというこれ以上ない個的な経験は、他人にはわかりません。「わかろう」とされないことも不愉快ですが、「わかられる」ことも不愉快です。医師にその「想像力」を求めるのは「ないものねだり」なのかもしれません。だから、患者さんに向かって「気持ちはよくわかります」と言ったとたん、かかわりは途切れます。
   「マスコミの影響で、患者が医者を信じなくなった」という言葉を聞いたことがあります。患者が医師を信用していないのは事実ですが、それは医師という他人が信じるに足るほどのものでないということを以前から誰もが知っているからであって、マスコミのせいではありません。
   No53.で、医療という仕事は人に「その夢をふくらませることができる場を提供すること」だと書きました。けれども同時に、医療とは人の「無念さ」とつきあう仕事です(教育もそうだと、「落ちこぼれ」を経験した私は感じています)。「病むこと」「死ぬこと」のその人の無念さは私たちには分かりませんし、「寄り添う」こともできません。私たちにできることは、ただそばに佇むことしかないのです。それでも、徒手空拳のままその場を離れないで居続けるのが医療者の仕事です。「これをおいて道徳の基本はない」と思いますが、そのことをうまく伝えるだけの教育を私たちはできていません。それは、私たちに若い人たちの心への「想像力」が欠けているからなのだという気がしています。(2012.9)

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