10年ほど前に武蔵野赤十字病院で初期研修をしたT君が、自分のブログに東京SP研究会のことを書いてくれていました。
「僕の研修した病院の研修部長が非常に『接遇』の教育に熱心だったからです。東京SP研究会の方を招いてロールモデル形式のトレーニングもさせられました。・・・・研修が始まった頃はこの『接遇』の研修がうざったくて仕方がなかった。みんな『救急外来で中心静脈取ったよ』とか『挿管したよ!』、『こんな症例があったよ!』と湧き上がる時期です。その時にどのように患者に話したらいいのか、なんて研修は全く興味が出てこない。ロールモデルを使って勉強会?いったいなんなんだ?!でも無理やりにでも勉強することができて良かった!なぜなら、初期研修が終わった後のキャリアで米国の内科研修、感染症の専門医研修を含めて『接遇』を教育されたことは一度もないから。実は米国の医療現場でも日本で学んだ『接遇』が大きな武器になっていると感じています。
ちゃんと患者の尊厳を守って丁寧に説明する・・・・なんて複雑なことは考えずにいつも『自分が医療関係者じゃなくて患者だったらどんな説明を受けたいのか』ということを考えながら個々の患者に合わせて接し方を変えています。ちょっとの心がけで患者さんとの信頼関係を築きやすいと思うし、訴訟の予防にもなるではないでしょうか。初期研修の最初の2年間は本当に重要だと思います。医師としての考え方が染み付いてしまうからです。」
ある新任部長が着任のあいさつで、学生時代に私の外来を見学したときから「おだいじに」と言えなくなったと書いてくれました。私はそのとき「『おだいじに』という紋切り型の言い方って、なんか相手を大切にしていない感じがするので、使わないんですよ」というようなことを言ったのだと思います(今も時々言っています)。
教育というのは、こんなふうに、時間が経って自分でも忘れてしまったころに、思いがけず戻ってくるものなのでしょう。短期間に結果が目に見えるようなことばかり求めるのも、自分の意図した通りの成果を期待するのも、教育の目的の一部でしかないのだと思います。そして、今でも「あの教育は、うざったくて仕方がなかった」と思っている人がいる筈です。すっかり忘れられているかもしれません。でも、いつか、何かの折に、ふと思い出してくれるもしれないと、未来に向けて「祈り」を送る=贈ることが教育であり、祈る姿を見てもらうことが教育です。
患者さんやその家族にかける(贈る)言葉も祈りです。目の前の患者さんの(私には見ることのできない)遥か先のある日に向かって、遺されるであろう家族の遠い未来に向かって、そこに着地し孵ってくれることを願って祈る思いで言葉を発することがあります。親しい人への言葉も、そうです。孵らないことのほうがきっと多いのです。逆に、知らないところで、意図してもいないものが孵っていることもきっとあるのでしょう。そのすべてがケアであり、だからケアとは今だけのことではありません。
この新任部長の挨拶を読んだ研修医から「先生は、最後にどう言っているのですか」と尋ねられました。あらためて考えてみると「お疲れさまでした」と言っていることもありますし、「今日のところは、これでよろしいでしょうか」とか「お困りのことがあれば、いつでもお出でください」とか「それでは次回、お待ちしています」というような意味のことを言っていることもあります。以前にも書きましたが、きっぱり打ち切る言葉を使わないように、恋人同士の別れのように(?)「名残を惜しむ」あいさつをしているつもりです。でも、こんなふうにしている一番の理由は、心を込めて「おだいじに」と私がうまく言えないからです。きっぱり「おだいじに」と言ってしまうことは、この言葉に失礼な気がしています。(2012.9)