臨床指導医養成講習会の開会を待っている参加者の顔は一様に不機嫌そうな顔をしています。会の性質にもよりますが、たくさんの病院から医師が参加している場合には、当人にとっては周囲には知らない人ばかりです。もともと来たくないのに「来さされた」人が大半です。これから何が起きるのかよくわからないし、以前参加した同僚からは「大変だぞ(ニヤッ)」といった情報だけをもらっています。
その顔は、病院に来る患者さんの顔と似ています。朝、総合案内に立っていますと、病院に入ってくる患者さんはみんな怒ったような顔をしています。うつむき加減の暗い顔です。診察を待っている人の顔も同じです。
病院の待合室では、暗い・怖い顔をして座っている人たちの間を、白衣を着た人たちが通り抜けていきます。白衣は、この人たちが違う人種であるということを見せつけます。それでも颯爽と歩くのならまだしも、だらしない恰好で、タラタラ・ベタベタ歩いている姿を見ると、がっかりします。もう、この時点でコミュニケーションの壁が生まれていることに、医師は気付きません。その雰囲気に、身体の辛さが倍加してしまいそうです。講習会開始前の自分たちの顔を見ておくと、それだけでも少しは良い医師が育つのではないかとさえ思えます。
「廊下を通る看護婦や医師の白衣がぼくらの心を委縮させる。彼らは健康で、ぼくらの脅える病気の世界で研究したり、仕事したりしている。連中もまたガンにかかりもしようが、そのときはどんなだろう、とても同じ人間とは思えない。名前を呼ばれて(それも記号のように聞こえる)診察室に入る。外の世界での自分は失われ、『患者』として、モノとして権威者の前に立つ。」(仲村祥一「日常経験の社会学」1981)この文章から30年を経て、変わったのは看護婦が看護師になったことだけではないでしょうか。
「医者って・・・、どうしても好きになれないの。優しそうな顔の後ろで、もう一つの顔が不気味に人を嘲笑っているような気がして」と30年前、卒業の時の寄せ書きに書いた看護学生には、患者さんの気持ちが見えていたのでしょう。(この文は、No.83でも引用しました。)
刑事ドラマ(アナザー・フェイス)で、「あんた、刑事らしくないね」と言われた大友刑事は「褒められちゃったよ」と答えます。「医者らしくないね」と思ってもらえたら、きっとそのコミュニケーションはうまくいっているのです。「らしくない」と言ってもらえるプロフェッショナリズムがあるはずです。そう言ってもらえた時、「褒められた」と感じる心を伝えることもコミュニケーション教育の課題だと思います。(2012.10)