「指導医養成講習会が楽しくない」という文章をある本で見かけました。その人は「これまでの講習会は楽しくなかったが、自分が工夫した講習会では参加者みんなが楽しんで笑い声が絶えなかった」と書いています。笑い声が絶えない楽しい講習会というのも「あり」だとは思いますが、それほど笑える「ゆとり」がどこから生まれているかが気になりました。「笑い」は優越した立場から生まれます。自らの優越性(教える側の無謬性・優位性。他方で、指導されるべき未熟な存在としての研修医)が確保されたところに安住していられるから、笑いが生じるということがあり得ると思います。
どの講習会でも、「指導法を教えてもらえると思っていたのに、違った」という感想を言う人がいます(そういう指導医養成講習会もあります)。同じ理由からか、コーチングのセッションはけっこう人気です。「自分の知っている正しいことを教えてやる」「出来の悪い研修医を育ててやる」方法の勉強のほうが、「教える-教えられる」という関係を問い直し自らのありようを問うことよりは楽しそうなのです。
けれども、指導医講習会は指導することの意味を自らに問い直してもらう場でもあると私は思っています。せっかくの機会なのですから、学習者の質よりも「教える」側の質を自ら問い返すことができなければもったいない。自分の背中は、若い人がそこから学べるようなものになっているだろうか。自分が学んでいる姿、自分が自分を問いかけている姿、医療倫理に立ちすくむ自分の姿、そういったものを伝えようとしているだろうか。「若い研修医の方が、自分よりも優れているに違いない」と心から信じているだろうか。そんな思いを私は講習会の中でのコメントにさりげなくすべり込ませています。こうした問いかけに気付けば、なかなか笑ってはいられないと思います。少なくとも、「笑い声が絶えなかったから」良い講習会だという論の進め方は粗雑だと思いました。
「教える―教えられる」の関係を問い直すことは、「治す―治される」の関係を問い直すことにも通底しているのです。バリバリ医学知識や技術を叩きこむことが良い教育だとされがちな傾向があることも気にかかります。そのような教育では、指導する側は正しいポジションにいることになりますから、その姿勢が伝わります。叩き込む教育を受けた人は、医師の方針を患者に叩き込む医師になりがちです。教育が、正しい知識を伝えるのと同時に別の好ましくないものを伝えているとは、指導している側は気が付きません。このような教育では、「答は一つではない」「答えが出ないところに止まることにこそ意味がある」ということは教えられにくいものです。心の問題さえも、患者は操作対象にとどまり、ケアの姿勢は伝えられません。
人を教えるということには、人の人生を左右する加害性が伴い、人が人を教えられると思うところには傲慢さがつきまといます。どのように正しい医療を行っていても、そこには人の人生を他人が左右するという加害性が抜きがたく、そこで働く人の心には傲慢さがそっとすり寄ってきます。そのことは、医学的な正しさ、医療者の善意や誠意、患者からの感謝、といったこととは関係ありません。教育や医療の倫理性は、このような視点を欠いたところにはないと思います。倫理を語るということは、自分たちのしていることの「見えにくい怖さ」を語ることでもあると思います。(2012.12)