東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.120

倫理の基礎にあるもの

日下隼人    No.101で載せた学生の論文に「医療倫理という難しい言葉でなく、人の人生を同じ人でしかない医師が当たり前のように評価することに『何様のつもりだろうか』と自問自答することは忘れてはいけないとこの文章を読んで心から思った」とありました。
   No.114でT君が「ちゃんと患者の尊厳を守って丁寧に説明する・・・なんて複雑なことは考えずにいつも『自分が医療関係者じゃなくて患者だったらどんな説明を受けたいのか』ということを考えながら」と書いていました。
   「医療倫理」について、大上段に振りかぶった学者や教師の言説が、どこか自分たちが大切にしたいこととずれていると学生たちは敏感に感じているのでしょう。普通の言葉で語ろうとする若い人たちの姿勢のほうにこそ、医療倫理の未来があります。
   だからと言って、暮らしの実感から語りさえすればよいというものでもありません。「自分の両親と考えて患者と接するように」という指導を受けたと言う学生がいました。この学生はその言葉に納得していたようですが、そこには指導する医師の浅い人生観が見えてしまいます。この言葉は、親子関係の葛藤で傷ついている人をさらに傷つけてしまいます。医者になるような人の家庭は、どの家庭も平和なものであると考えているのでしょうか。誰もが「幸せな」親子関係を生きているわけではないというような目配りができなければ、ケアは危険なものになりかねません。こんな場面で私は「自分にとって最愛の人・とても大切な人に対して、自分がしている診察のしかた・言葉づかいをされたとき『この医師で良かった』と思えるようなものかどうか、確かめながら診療して下さい」と話しています。
   医療倫理というのは生死を振り分けるような極限的な場面でのことではないのだということを、野崎泰伸は、「『究極の選択』に追い込まれた時にせざるを得ない『決定』とは『処世術』なのであって、『倫理』ではない。倫理とはもっと手前において思考されるべきものなのである。・・・・そのような場面で取ってしまう/取らざるをえない行為を倫理とよび正当化しようとするのは道徳的詐術である」と言います(「生を肯定する倫理へ」白澤社2011)。
   ここで語られているのは、そのような選択に直面するところに私たちを追い込む現実そのものを問うことが倫理なのだということだと思います。でも、私はこの文章から、別の意味も感じてしまいました。倫理とは、当の患者さんと、患者さんをとりまく人たち(もちろん医療者も含まれます)とが話し合う中で選び取っていくことだと思いますが、そのためには、どのようなことでも話し合える関係が必要であり、患者さんからどんなことを話してもよい人間として私たちが認定されることが必要です。その信頼は、私たちの日々の行動で評価されます。人は、常識的に見てまともな人間しか信じないのです。和辻哲郎は「倫理の基礎は常識にある」と言います。野村雅一は、「倫理の規範については、それを習慣に求めるのが安全だというデカルトの思想を私は無条件で信奉する(福田定良『めもらびりあ』)つまり、倫理はしぐさ化してしまわなくてはいけない・・・。」と言います(『ふれあう回路』平凡社1987 )。とすれば、医療倫理の基礎は「患者さんが行き来する病院の廊下であくびをしない」「だらしなく白衣を着ない」「敬語なしに会話しない」といった日々の行動にあるはずですし、そこをないがしろにしては空しい議論になってしまいそうです。そんなことを伝える倫理教育が行われているでしょうか。
   それに、どんなことでも話し合うことは、「究極の選択を迫ってしまう現実」を問い返し、立ち向かうことにもなるのではないかという気がします。(2012.12)

▲コミュニケーションのススメ目次へ戻る        ▲このページのトップへ戻る

 

プライバシーポリシー | サイトマップ | お問い合わせ |  Copyright©2007 東京SP研究会 All rights reserved.