「子どもに治療の内容を説明したら、泣いていたその子が落ち着いた」と看護学生が報告してきました。「治療の意味を話すことも確かに意味があったと思うけれど、話した雰囲気が良かったから落ち着いたということもあるかもしれないね。どんな雰囲気で話したか、今回経験した自分の関わり方を忘れずに大切にしてね」と私。言葉の方に気が行ってしまうのは、医者だけのことではありません。
実習に来た看護学生には、よく「岡山大学看護学生の小児実習宣言」を見てもらっていました。この存在を、私はCOMLの辻本好子さん(故人)に教えてもらいました。
@ 私達は、子どもたちが希望する名前で呼びます
A 私達は、いつも笑顔で子どもたちの目の高さでケアを行ないます
B 私達は、子どもたちとの約束を守ります
C 私達は、誕生日など子どもたちの記念日には気をつけます
D 私達は、子供たちがいつも清潔で、心地よい環境で過ごせるようにします
E 私達は、眠っているときに無理に起こしたり遊びの邪魔をしないように、子供たちの日常生活を可能な限り妨げないようにします
F 私達は、子供たちがつらいときに、大声で泣いたり、叫んだり、嫌だといえるような環境をつくります。
G 私達は、子どもの疑問に対して、子どものわかる言葉で、理解できるように説明を行ないます
でも、看護学生はこのような教育を受けているのに、小児科医は受けていません。子どもとの話し方や接し方について体系的に教えられていませんし、学ぼうともしていません。真剣に議論されることもほとんどありません。「女・子ども」を相手にしているために、小児科医は成長しません。この「女・子ども」というのは蔑視しているのではなく、「物言わぬ子ども」と「子どもを人質にとられていて、言いたいことも言えない弱い立場の女性」という意味です。患者はもちろん家族も自分よりも年下で、その人たちから厳しく問われることがまれなのですから、いつまでたっても小児科医は成長しません。
「子どもはピュアだから」と言う小児科医がいるという話を聞いて、私は驚きました。こうした考え方から離れて多くの「子ども論」が語られるようになってから、ずいぶん時間がたっているのに。いや、そのようなものを読んでいなくとも良いのです(ほんとうに良いのかな)。一人の「同時代を生きる仲間=年若き友人」としてその存在ときちんと向き合ってきたら(若いうちに1−2年でもそうすれば十分です)、このような言葉は出てこないはずです。この言葉は、小児科医が子どもの専門家ではないことの証にしかなりません。平井信義は言います。「子どもとの関係を大切にしない教師は、弱者である子どもの前で傲慢です。子どもに対して、何となく見くびっているようなふるまいをするのです。」(「ひらめ先生の体験的教育論」)子どもに限ったことでも、教育に限ったことでもありません。
小児科志望の学生が、「小児科は親がいて大変だよ」と先輩の内科医に言われたそうです、以前からよく言われていることですが。こうしたことを言う人には、自分が付き合っている成人患者の家族が見えていないのではないでしょうか。本当は子どもの患者以上に、成人患者の家族とのつきあいは大変なはずです。その大変さに向き合っていない(あるいは、気づいていない)時にしか、このような言葉は出てきません。小児医療のケアの課題は、子どもとどう関わるか以上に、子どもを支えている人たちをどう支えていくのかということです。子どもを乗せている船が揺れている限り子どもの揺れは治まりませんし、船が安定すれば自ずと子どもの揺れは治まります。それに親と一緒に子どもが陥った事態の解決に向けて共同して取り組んでこそ、チーム医療です。それまでに子どもよりずっと厚い人間関係のある大人の場合、もっともっと多くの人が揺れていますし、それぞれの揺れは大きく長いというのに。
小児科医にならない医学生、小児看護に携わらない看護学生が、小児科を学ぶことの意味は、「子どもと関わる医療の場ではこんなことを大切にしているのだ」ということを感じ取ってもらうことだと私は思っています。でも、それだけでは不十分です。子どもだから必要なケアは成人にもすべきことなのですし、成人に大切なことは子どもにも大切なことなのです。子どもだからしてはいけないことは、成人にもしないほうが良いのです。同じように、終末期に必要なケアはどの状況の患者さんにも必要ですし、終末期の人に控えたいことはどの患者さんにも控えるほうがよいのです。通底する視点を示せない教育は、教育としては不十分なものだと思います。あの岡山大学の宣言は、小児科だけに限られたことでも、実習に限られたことでもなく、すべての医療の場面にあてはまっています。 (2013.5)