現在の医療をめぐる問題については「患者にも反省すべきところがある」と言う人がいます。そういう面はあるでしょう。でも、その言葉を医療者が言うのはどうでしょうか。医療者が言う時、そこには自分の責任を軽くしようという下心が見え隠れします。私が関わるところで問題が起きているのだとしたら、私は自分が反省すべきところを丁寧に見つめるしかないのです。医療者が自らのしていることの意味を問いかけ、そこでの思いがきちんと伝われば、こちらから言わなくとも自らを振り返ってくれる人がいるはずです。
「医療に対する患者の過大な期待」という「神話」があります。そのような「期待」は、自然に生まれてきたのではありません。これまで医療者が、医学の進歩や医療について宣伝してきたからこそ「医療は万能」神話が生まれているのですし、その神話から得られる利得があるので医療者は人々が「過大な期待」を抱くことに異を唱えていなかったはずです。マスコミなどで医学の進歩が喧伝される場合もありますが、必ず医学の「権威者」がそのことを保証しています。そうした経緯を抜きにして、患者を責めても仕方がありません。今になって「過大な期待」を批判するのは、マッチポンプ(古典的表現?)です。身内が言ったことは、身内が引き受けるしかないでしょう。それに、「過大な期待」をすることで、かろうじて病むことの辛さに耐えることができる人も少なくないはずです。医師が患者の「過大な期待」という誤りを正そうとするとき、患者の生きる希望を踏みにじってもいるかもしれないのです。
「態度の悪い患者もいるから」という人がいます。これも、その通りです。でも、だからこちらが礼儀を失しても良いということにはなりません。「態度の悪さ」の奥にも、さまざまな思いが蠢いています。「態度が悪い」「いやだな」と感じる相手だからこそ、なおさら丁寧に接するようにしたい。そのようにすることで、相手の心が開かれる時が間違いなくあります。この「つらさ」は、現在の身体的・精神的なつらさだけではなく、これまで生きてきたその人の個人史の中のつらさです。たとえ、うまくいくことの方が少なくとも、そこからつきあいが生まれ患者さんの辛さが和らぐことがあるのなら、そちらに賭けてみるほうが楽しそうです。
コミュニケーションがうまくとれない時、はじめに「ボタンの掛け違い」(この言葉はNo25でも触れましたが)があったと言われることがあります。でも、そう思うところにすでに勘違いがあります。医療の場では、どのように努力しても、患者と医療者との間ではボタンがはじめから掛け違っているのです。絶対に掛け違っているはずだと考え、その掛け違ったところを探しながら、少しずつでもかけ違いから生まれた事態を修正しようとしていないとき、「かけ違い」が修復できないほど大きくなってしまうのです。トラブルが起きていない時は「かけ違い」がなかったのではなく、患者さんが苦労しながら「かけ違い」に身を合わせているのです。(2013.6)