東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.14

これってファシズム・・・? No.1

日下隼人 日本中、いたるところ「禁煙」の時代になってきました。愛煙家の人は大変だろうなと思いますし、これって人権侵害ではないのかなと、生まれてから一回もタバコを吸ったことのない私は心配してしまいます。「禁煙を主張しなければ人にあらず」となると、これはもう危険な状況なのではないかとも感じます。「健康」が規範として迫ってくる社会は息苦しい。「健康のために喫煙は控えましょう」というような言葉よりも、かつての専売公社のコピーにあった「今日も元気だ、タバコがうまい」のほうが、ずっと好きです。人は、外から決められた「健康」に向かって生きるのではなく、自分の内側から湧き出てくる「元気」を糧に生きるものだと思うのです。WHOがなんと言おうと、絡めとられなくても良いではないですか。(若き富永茂樹―現・京大人文科研教授―が著した「健康論序説」で述べられた「抑圧概念としての健康」という指摘の正しさはいっそう増していると思います。)どんなに正しいことも、それが「正義」の名のもとに人に襲いかかる状況は、いつの時代も危険なことなのではないでしょうか。(「正義の人は、他人の言うことを聞きません」鶴見俊輔)
 病気になるということは、それまでの生活が出来なくなり、自分の人生設計が狂う(アイデンティティが揺らぐ)ということです。「病む」とは、そのような意味での人生の「嵐」のただ中に立たされる事態のことです。心身の不調は、人生の流れを阻むきっかけであり、当面急いで解決されなければならない大問題ですが、そこに病いの本質があるとは言えません。「病者には社会的な問題や心の問題もある」のではなく、病者には自分の人生の問題があるのであり、それがすべてなのです。病気になることで、人はその人生の軌道修正をせまられ、自分自身の人生設計を変えなければならなくなります。それがほんのわずかでも、人はそこで呆然と立ちすくんでしまいます。つまり、アイデンティティを人は見失うのであり、それがアイデンティティの崩壊と感じられます。病者は自らのアイデンティティを見失い、そこから生まれる根源的な不安に孤独に耐えるしかないのです。病者の不安の根源には、動物としての生命の危機を含む、アイデンティティの危機があります。それゆえ、病いの対極にあるのは「健康」ではなく、事件が終了した結果にたどりつく、あるいは事件が続いていてもそれが常態となった「日常性」なのです。そして「日常性」にこだわり続けることがファシズムを阻むことになるのではないかと思います。
 患者さんが歩むその過程の全体を、黙ってじっと見守ることが。ケアの出発点です。「いつもそばにいる」ことはできなくても、「いつも気にかけていて、何かあれば手を添えます」というメッセージを日々のかかわりを通して伝える、それがコミュニケーションなのだと思います。

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