若い医師向けの院外での勉強会の案内文書が目にとまりました。私の若いころには、このようなものが無かったので、今の人は恵まれています。いや、もしかしたら有ったのに、勉強嫌いの私がそのようなものに気付かなかっただけかもしれません。気づいていても、私は子どもと遊ぶことや子供たちのお母さんと話し込むことに夢中だったので、やっぱり行かなかったのではないかとも思いますが。
ところで、その案内に「この研究会は○○製薬の支援を受けています」と書かれていました。製薬企業が企画する「若手医師セミナー」も花盛りです。医師会の勉強会でもそうです。病院主催の講演会に招かれたので出かけると、製薬企業の人が行程から会食までお膳立てしてくれていてがっかりしたことが私には何度かあります。講演の前に、企業の新薬説明を聞いていて、複雑な思いがしました。昔のように、MRの人たちと飲み食いするよりはましかもしれませんが、このような事態を先輩医師たちは抵抗なく受け入れ(「見なかったこと」にしているのかもしれません)、若い医師がだんだん馴れていくのはやっぱり残念です。支援を受けていることを明記することは「正直で良い」のかもしれませんが、書くからにはそれが何らかの「刷り込み」になってしまうでしょう。「お世話になった」会社の名前は、心のどこかにインプットされてしまいます。講師になるとそれなりの副収入が生まれることも学ぶかもしれません。「ひも付き」にならないように気を付けていれば良いと思うかもしれませんが、「相身互い」になってしまうのが人の常です。資金面を含めて企業に自分たちの活動の便宜を図ってもらう習慣はすぐに身につき、それをおかしいと感じなくなる感覚鈍麻が進行します。Hidden Curriculum(隠されたカリキュラム)満載なのです。
勉強会は毎日するわけでもないのですから、手弁当で行うことはできないのでしょうか。これでは、勉強会でたくさんの知識が身に付くことと引き換えに、「身を厳しく律する」姿勢(もともと強くないけれど)が蝕まれていきます。「ささいなこと」と思われがちなことですし、いかようにも言いわけはできますが、これは「蟻の一穴」です。製薬会社から資金援助を受けて薬品の治験データを創作するようになることまでの距離は、裏口をあけたらもうその部屋のど真ん中に入ってしまうほど近いのです。数年の寿命しかない知識を手に入れる代わりに、倫理的姿勢を一生見失うことになりかねません。ファウストとメフィストフェレスの関係だと言うと言い過ぎかもしれませんが、少なくとも「角を矯めて牛を殺す」可能性大です。
普通の市民が、こうしたことを知った時に「医者」という人間を信じることができるでしょうか。このような人に、自分の命の首根っこを押さえられて嬉しいでしょうか。「やっぱりね」と思われるに違いありませんし、たいていの人はそのことを知っているから医者を心からは信じてはいないのです。教育で何を伝えようとしているのか、何が伝わってしまうのか。そのことに鈍感な教育は、鈍感な医者を作ることしかできません。負のHidden Curriculumは、教える方も教えられる方も蝕みます。
私は、若い人たちがこのような勉強会に出るべきではないと言っているわけではありません。「(製薬会社主催の勉強会が)何か悪いですか」と言う若い人が居たのですが、参加しても「何か悪い」ということだけは感じ続けていてほしい。まあ、「何か悪いですか」と言うということ自体、どこかで「まずい」という「理性の声」を聞いていることの証かもしれないのですが。
「(カントの)『性癖』という概念は、・・・・われわれが道徳的善への配慮なく漫然と生きている限り、われわれはごく自然に悪へと下降していく、悪を増大させていくということである」(中島義道「悪への自由 カント倫理学の深層文法」勁草書房)(2013.09)