東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.144

あまちゃん

日下隼人    病院を退職したおかげで、はじめてNHK朝の連続ドラマが見られるようになりましたが、それが話題の「あまちゃん」でした。大人気になったのは、これが現代のファンタジーだったからのような気がします。

   東京から北三陸に来て1年、アイドルになるために東京に戻る主人公アキ(能年玲奈)が母に尋ねます。
   「ママ、私、変わった?」
   「変わってないよ、アキは。昔も今も、地味で暗くて、向上心も協調性も存在感も個性も華もない、パッとしない子だけど、だけど、みんなに好かれたね! こっちにきて、みんなに好かれた。あんたじゃなくて、みんなが変わったんだよ!自信持ちなさい、それはね、案外、すごいことなんだからね!」と母(小泉今日子)は、動き出した列車のアキに向かって走りながら言います。(72話)
   地震を機に、再び北三陸に戻ったアキは、また「私、変わった?」と友人に尋ね、「変わっていない」と言われます。
   「いがった。芸能界さ居ると・・・っていうか、東京がそうなのかな。成長しねえと、怠けてるみたいに言われるべ。でもな、成長しなきゃだめなのかって思うんだ。人間だもの。ほっといても成長するべ。背が伸びたり、太ったり、痩せたり、おっぱいでっかくなったりな。・・・それでも変わらねえ、変わりだぐねえ部分もあると思うんだ。あまちゃんだって言われるかもしんねえけど、それでもいい。プロちゃんにはなれねえし、なりだぐねえ。」 (147話)

   卒業したての医師は、そのままで周りの人を変えるみずみずしい力を持っています。その力は私たちの希望の源です。若い人は誰もが「プロちゃんになりきる」ことへの戸惑いを抱えています。「あまちゃん」は「甘ちゃん」でもあるかもしれませんが、「プロでもない、シロウトでもない、アマチュア」(151話・太巻プロデューサーの言葉)でもあります。その思いを削がないことが、医学教育には必須のことなのではないでしょうか。
   ただ、医療の場合、難しいことがあります。
   医師は知識や技術をどんどん身につけなければ患者さんが困ります。「プロちゃん」にならなければなりません。しかし、態度(情意領域)は「プロちゃん」にならないで「アマチュア」に留まり続けることが成長するということです(そこから「洗練された素朴さ」が生まれます)。この相反する方向への成長を一人の中でバランスを取って共存させるという面倒な作業は、誰にでもうまくやれるわけではありませんし、まとめて流される方がずっと楽です。バランスのとり方を、私たちもうまく伝えられていません。
   それに、まわりの大人たちの心がflexibleでなければ、大人たちは変われません。若い人がまわりの大人のようになることが成長だと思いこんでいる人には、アキのような人を好きになることはできないでしょう。若い医師の迷う姿・立ち竦む姿を見て「我に返り」、その姿とつきあうことにワクワクするような人が、この世界には少なすぎるのかもしれません。
   「アマチュア」の心は初心です。研修医の採用面接で信条を尋ねると「初心忘るべからず」と答える人はいっぱいいますが、いつの間にかこの言葉を答えたことも、初心そのものも忘れてしまいます。そうなる原因の一端は、私たちが若い人の「ありのまま」を好きになっていないからなのかもしれません。
   相手の人を好きになると、自分が変わります。医学教育では、新しい教育理念や教育技法がいろいろ考え出されています(コミュニケーション教育もその一つです)。そのとき私は、新しい教育技法を若い医師の教育に応用した結果よりも、新しい教育技法を学んだ驚きで「教育する者」がどう変わったかを聞いてみたいと、いつも思ってしまいます。医学に限らず教育は、どうしても若い人や子どもをうまく「成長」させるものとして語られがちです。その時、「教える側」の立ち位置は不動です。でも、「教える側」が「教わる側」のみずみずしさに感動し(劇中でアキが何度も見せるキラキラした表情・キラキラした瞳は、オリエンテーションの時の研修医も持っています)、その力から学ぶことで自ら変わっていく姿を見てもらうことこそが教育です。そこでは「教える-教えられる」という関係が変容します(「治療する-治療される」という医療の場の関係にも、同じことが言えると思います)。そうした教育でなければ、「教わる側」が初心を忘れることなく成長することは難しいでしょう。
   そして、「教える側」の人にありのままの姿を好きになってもらった経験がなければ、患者や後輩をありのまま好きになることのできる医師は育たないでしょう。若い医師を信じてその未来に賭ける、教育に関わるとはそのような思いを抱き続けることではないでしょうか。

   「子どもが住めないような世界というのは、結局のところ大人にも住めない世界だと私は考えています。・・・・再び世界を人間の尺度ではかり始めること。・・・・もっと現実感に満ちた、体験することのできるものの考え方を通して、人間的な領域に引き戻すことこそ必要だと考えます。
   こう考えてくると、私は我々が生きていく上に根本的に必要なのはポエジー、つまり詩や文学だと思います。・・・・ポエジーという場合、私は詩だとか物語だとか芸術とかだけを考えているわけではありません。むしろ、生活の形態そのもの、経験し、体験しうる世界解釈そのものを考えているのです。そうなればいつの日にか大人もポエジーに耳を傾けて、何が真実で何が真実でないかを聴くほどに大人になるでしょう。そうなればきっと新しい全然別の性質を持った自然科学が生まれてくるかもしれません。」(M.エンデ「エンデのメモ箱」) (2013.10)

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