東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.146

医療倫理とコミュニケーション(1) 日常の倫理

日下隼人    No.145で、キラキラしたサービスマンという言葉を紹介しました。医療倫理についていろいろ語られていますが、医療スタッフがキラキラしていないところで語られる医療倫理には意味がないと思います。
   医療倫理、生命倫理という言葉が聞かれるようになってずいぶん時間が経ちました。でも、臨床現場では、誰もが「気軽に」話すようになっているわけではありません。「それは倫理的に問題があるのでは」と言うと座が白けることもありそうですし、言っている人は「変な人」「うるさい人」と思われる場合もありそうです。「(誰かが)うるさいから、仕方ないから、一応ふれておこう」という程度のことも多そうです。学生たちもこのような議論は余り好まないと教えられたことは、No133に書きました。(看護の世界では語られることが多いのに、どうして医師の世界では「避けられる」のでしょう。)
   医療倫理と言えば、「良い薬を2人の患者が求めているのに一人分しかない」といった倫理ジレンマについての議論、「胃瘻をどうするか」「人工呼吸管理を止めるか続けるか」といった個々の「ややこしい」問題への対応の検討のことであり、それへの対処としての「倫理判断のための4分割法」(医学的適応・患者の選好・QOL・周囲の状況の4つに整理して考える方法)の知識と運用のことだと考えている人も少なくないでしょう。そんな教育や研修がされていることも少なくありません。
   「行動方針」が出ないと不安になりがちな医療者は、医療倫理とは難しい議論をして(あるいは「偉い」人の「指導」を受けて)「答えを出すこと」だと考えている人もいるかもしれません。みんなで頭を突き合わせて議論して、「答えがない」とか「合意を得ることは無理」と言うような結論に踏みとどまることは、たいていの人が苦手です。
   少し本を読むと、アリストテレス、カントといった哲学者の名前から始まって、カタカナの名前が飛び交っています。「正義」「幸福」といったわかりきった言葉が、哲学の大問題だということが書かれています。外国語の語源から述べられていることも少なくないのですが、それは必須のことなのでしょうか。「自然科学に親しんできた(?)」医師は、もうこのあたりでお手上げです。一方で、語る人たちはますます難しい議論を深めていき、臨床と哲学の距離はひろがるばかりです。倫理を語る人は、臨床家には「変人」「うるさいやつ」にしか見えなくなります。それでいて、先端医療については、倫理の「専門家」が「後追い」で議論し、結局は許可を出すという関係が続いていて、「倫理」は医学・医療の「共犯者」にされてしまっています。
   脳死-臓器移植について「こんな良い治療の、どこが悪いの?」という雰囲気の医学生や研修医が少なくありません。臓器移植に限らず先端的な医療を行っている医学部という場で、そうしたことに根本的異議を唱えるようなことは行いにくいはずですから、倫理教育をきちんと行うことはもともと無理なのでしょう。その表れだという気がしました。

   ある研究会の呼びかけに「日常の臨床ケアの現場に潜む倫理的問題を考える」という言葉があったので、心惹かれて出かけたところ、議論は「脳死」「治療中止」「尊厳死」「胃瘻」「在宅死」などの言葉ばかりで少しがっかりしたこともNo.128で書きました。
   こうした議論の多くは医療者が、医療を行うという立場からのものです。4分割法で、人の生死に関わることをみんなで話し合っているとき、人の生を上からの裁断し、振り分ける感じがします。その時、どうして語る当の人は、自分がそのように語る「資格」があると信じられるのかが私には気になります。「誠実だから」「患者さんと接しているから」「自分はいつも倫理について考えているから」というだけで、語る資格が与えられるわけではないと思います。
   Why be moral?、「医療者はどうして倫理的でなければならないの」という問いがまず立つはずです。「倫理」とは、人と人とが関わる時の理です。「倫理とはなんであるかとの問いは、人間の問いとして、すでに間柄を意味した」(和辻哲郎)。人と人とのつきあいはどうあるべきか、どう行為すべきかという「思想」と言うより、まさにその実践です。他者が出現するという事実そのことがすでに私たちを倫理的実践のうちに巻き込んでいるとE.レヴィナスは言っているそうです。「他者は、『受け容れよ』『与えよ』という二重の倫理的命令を伴って出現する。・・・他者に向かって私たちがなす『愛』の行為とは、『おのれの理解を絶したものを受け容れる』ことと、『おのれの所有物を、見返りを求めずに贈ること』を同時に含意することになるのである。」(「ためらいの倫理学」内田樹) 人の「生き死に」と直接関わるこの世界での出会いなのですから、私たち医療者と患者の出会いは、はじめから相互に倫理的実践以外のありようは無いはずです。とすれば、医療倫理とは医療の場で出会う人間どうしのつきあいがどうあるべきか、医療の専門家として出会う私たちがどうつきあうべきかということです。ケアとは、人が人を支えることであり、お互いに支え合うことですから、関わりが倫理的な時にしかケアは生まれないはずです。
   自分の人生について語られる当の患者の立場に立てば(ここでは一般的な患者さんということではなく、私が患者の場合という意味で書いています)、私と丁寧に付き合い、その付き合いを通して「なじんだ」人にしか、私の人生を語ってほしくないと思ってしまいます。私と話すときにキラキラしていない人に、私の人生のことを語られても「なんだかな」という感じです。私の人生に関わる「問題」について、日々の付き合いの中で私のことを尊重してくれているとは感じられない医療者であれば、その人がどんなに考えた上で判断をしてくれても、その判断は私を尊重してのものとは受け止めることはできません。そのような人と、自分の「生き死に」について話し合いたくありません。

   自分が、目の前の人とどのように付き合うかということを、「君は、君のいのちを、君に考えてほしいか」と言い換えることができるでしょうか。もし君が病気になったら、その時の君は、医療者である今の君に、君の生死を語ってほしいか。病気の当事者であるあなたは、あなたの「生き死に」に関わることを、今患者と接しているあなたのような人に考えられて「善し」とするでしょうか。そう思えるような姿勢で患者さんと付き合っているでしょうか。目の前の人(患者だけではありません)を最大限に人間として尊重し、その人の人間としての誇りを尊重し、その人を最後まで支える生き方をしているかでしょうか。
   倫理とは関係性であり、医療の場の倫理は、病む人を人間として尊重する日々のコミュニケーションを丁寧に行うことにつきると思います。そんな人は、きっとキラキラしているのです。 (続く)(2013.10)

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