東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.147

医療倫理とコミュニケーション(2) わからないことばかり

日下隼人    私は患者体験をたくさんしているわけではありませんが、もう少し患者の立場から考えてみたいと思います。医師や看護師や家族によって人生の「問題」が話し合われた患者である私は思います。

   自分の希望は、4つの区画のうちの一つでしかないのですか(医療倫理の4分割法)。私の希望は、医療経済や周りの人の思いを配慮したうえでしか、認めてもらえないのでしょうか。そういうものを無視したら「わがまま」とか「社会の金食い虫」と罵られるのでしょうか。どうして、私の希望がすべてというところから始まらないのでしょうか。
   でも、「私の希望」というのは、私でもよくわかっていません。どこまでが、ほんとうに自分の気持ちか、自分でもわかりません。周りの人のことを慮っての思いを、希望だと自分でも思いこんでいるのかもしれません。希望・自分の考えは、自分だけで考えたわけではなく、これまで受けた教育、マスコミや周りの人の意見と言ったものに左右されているでしょう。少しでも自分がカッコ良く見えるようにという思いから希望を述べているかもしれませんし、そのこと自体に自分でも気づいていないかもしれません。私自身にもわからないのに、だれが、私の希望を確認できるのでしょう。

   それでも、私の希望が確認できたら、プロの矜持として、私という患者が求めることに全力で応えようとしてくれるのでしょうか。私のことを話し合って「くれている」あなたは、私と話しあってきてくれていますか? いつも私の話をちゃんと聴いてくれていますか、これからも聴いてくれますか? 私に「上から目線」で接している人は、私の人生を上から采配してしまうでしょう。患者は「上から目線」の人と我慢して付き合っていることが分かっているでしょうか。「上から目線」であるかどうかは、敬語やお辞儀で判断しているわけではありません。その医療者が「上から」私を見ているかどうか、義理で私と付き合っているかどうかは、すぐわかってしまいます、患者は必死ですから。私という人間を最大限に尊重してくれていない人が、私の人生を尊重してくれるとは思えません。

   「話を聴いて」とは思いますが、こちらが何かを話すと、すぐそれをナラティブ(患者の語り)だと「納得」しないでください。思っていることをその通り話せているわけではありません。思いは言葉に納まりません。話していることは、あなたに見せたい私の顔であり、自分が思い込みたい自画像です。ナラティブは、自己を取り繕う(体面を保つ)表現でしかありません。話していることは、本音でありながら本音ではないのです。本当に大切なことや本音は隠しておきたいものですし(隠しておかないと自分が無くなってしまいそうです)、自分でも何が本音かわかってもいません。心の奥で私を動かしている何かがありそうですが、それも私にはわかりません。私はあなたに心を閉ざしているだけではなく、自分自身にも心を閉ざしているのかもしれません。それを、無理にこじ開けないでください。
   相手によって言うことは変わりますし、話している時の雰囲気によっても話していることは変わります。それは、コロコロ言うことが代わるということではないのです。いろいろな思いが混在していますし、相手によって、その場の雰囲気によって思いは変わるしかないからなのです。
   病むという状況から、言葉は絞り出されています。言葉には、様々な思いが幾重にも捻じれて込められています。患者の語りは、通過点の光景ではあっても、出発点でも終着点でもない儚いものなのです。
   それに、話の内容よりもあなたと言葉を交わす「今」という時が貴重です。語られる言葉より、楽しく語りあえることがだいじなのです。言葉をないがしろにしないでほしいけれど、言葉の字面に拘泥してほしくない。時候の挨拶や雑談から生まれる付き合いを通してほっとすることができた人がいてくれると、私は呟くくらいのことはしてしまうかもしれません(鷲田清一「『聴く』ことの力」)。そんな人になら、私の人生の「問題」を検討してもらっても良いかもしれません。

   患者(家族)は絶対的に孤独です。人生だってもともと孤独なものですが、病むとき孤独であることを思い知らされます。一人ぼっちで「裸」で「寒空」に立たされ、どこに向かって良いのかも分からず(いろいろアドバイスされても、その助言が適切なものかも分からず)、結局は一人で耐え、一人で背負っていくしかなく、一人で旅立たなければならないことを思い知らされます。自分の病気のことは、説明されても言葉が耳に入りにくくなっているために、わかりません。言葉が難しくなくとも、繰り返し説明されても、わからないことがあります。病気のことがわかってもわかりたくないこともあります。わかっても、わからないようにしておきたいことも少なくありません。それなのに、わかることを強要され、その上で「自己決定」を迫られます。「自律」も「自立」も、病が妨げます。もともと人間にとって「自立」や「自律」なんてフィクションです。自己決定と言われながら、自分の意志とは関係ない要素により決定を迫られ、自分で決めたふりをしなければなりません。
   「自由意思・・・それは、あらゆるうちでもっともいかがわしい神学者ども(≒医療者)の曲芸であり・・・人類を彼らに依存させるためのものである」(ニーチェ「偶像の黄昏」)
   人間的に信じられない専門家に取り囲まれ、その専門家に自分の人生が翻弄されることの悔しさ。人の「生き死に」に関わることを職業としているような人間をそもそも信じられるはずがないし、医療者の「わけ知り顔」が気に食わない。QOL、良い終末の迎え方、なんて何様のつもり? 恵まれて育ってきた医者なんかに、私たちの暮らしのことがわかるとは思えない。若い人に、長く生きてきた人間の想いがわかるとは思えない。もともと、他人を信頼することは難しく、医者というような存在を信頼することはなおさら難しい。白衣は、信頼を保障するものであるよりは、信頼を妨げます。
   そんな思いがわかったうえで、あなたは私の人生の「問題」を語ってくれているのでしょうか。

   病気になるということは、「揺れ」の中を生きるということです。アイデンティティは揺れ続けます。自分の心も揺れ動きます。
   揺れのふり幅は大きいのです。(自分の病気について)「知りたい−知りたくない」、(自分のことを)「知ってほしい−知られたくない」、(自分の現在の状況を)「わかりたい−わかりたくない」、(自分の気持ちを)「わかってほしい−わかられてたまるか」、(医療者に)「手伝ってほしい−手出しをしてほしくない」、(周囲の人に)「感謝している−呪ってやりたい・みんな敵だ」、(きっと自分は)「大丈夫−ぜったいダメ」、(現状は)「まだ大丈夫−もう駄目」、(医療者・家族・友人に)「頼りたい−頼りたくない」、(医療者・家族・友人を)「信じたい−信じられない」、(自分のことを)「全部見ろ−全部なんか見るな」、(医療者の言うことに)「従わなければ―従わない(言われる通りにしなくとも大丈夫だ、こんなことだってできるということをなんとか確認したい)」・・・・と無限に揺れ動きます。でも、揺れに身を任せるからこそ、病むという非常事態をなんとか生きていられるのです。こうした事態は患者だけでなく家族も同じです。家族の場合、当事者ではありませんし、「その後」も生きていかなければなりませんから、かえってこうした思い・揺れが大きいようです。この「揺れ」にあきれても、それでもあなたは付き合ってくれるでしょうか。その上で、私の「生き死に」を語っているのでしょうか。(続く)(2013.10)

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