医療者である私に戻ります。人の「生き死に」「生き方」について、「あれこれ言うてるアンタは、なんぼのもんやねん」と突っ込まれて、私は答えられるでしょうか。他人の「生の終わり方」とかQOLとかを私が語って良いのでしょうか。そのために、私は、他人の「生き死に」を語れるほどに、自分の生きていることの意味を問いかけているでしょうか。自分が、進んで「健康概念に管理されて生かされている」所与の状況を、あたりまえのこととして受け入れていないでしょうか。世の中の「あたりまえ」のことを、それはあたりまえのことではないのではないかと疑っているでしょうか。人生の「ちょっとした」違和感を、「まあいいや」「仕方ない」とやり過ごしていないでしょうか。
その人の人生のことをほとんど知らないのに、その「生き死に」に関わることを決めることを日常的な仕事としていることの恐ろしさ・不遜さを、目をそらさずに受け止める覚悟が医療者には必要なことくらいは大学で教えてくれても良いのではないでしょうか。人生は、分厚い書物のようなものです(子どもであっても)。でも、相当親しくなった場合でも(ナラティブが聴けたと思った場合でも)、医療者が読んだのは、その書物の1ページか2ページくらいでしかないのでしょう。考えてみれば、恋人くらい親しくても、お互いに、分厚い本の「はじめに」と「あとがき」を知っている程度ではないでしょうか。日々の臨床では、本の表紙か目次をみる程度のことしかしていないのに、だからどんなことが書かれているか、どのような想いで書かれたかを全く知らないのに、その本を廃棄したり置かれる書棚を決めてしまうようなことを私たちはしているのです。
「一人の高齢者が死ぬと、一つの図書館がなくなる」(アフリカの諺)
その人の人生を私が語ってよいかどうかを判定するのは、私ではなく、その患者さんです(家族や周囲の人みんなが入ります。家族しかできない場合もあります)。「こんなふうに付き合ってくれる人間となら、ちょっとは話してみてもよいか」と認定されたところからしか、その人の人生についての話し合いに私が参加することはできないのです(救急診療のように付き合いの時間が短い場合でも(だからこそ)、自分が医療者から尊重されているかはわかります)。どのような人生を選び取るかは、そこでの話し合いを通してみんなで手探りで求めていくことであり、それが倫理的選択・決断です。ケアの倫理は、コミュニケーション=ケアの実践の中にしか生きないのです。当然、人ごとに選択は異なります。
マスコミや「識者」の宣伝や、様々の保健計画案は片目で見る程度にしておけばよいのであって、「社会の全体像」「医療経済」「福祉が可能か」などから解決策を考えださなくても良いし(こうした議論が、どれほど多くの大切なことを圧殺しているかは忘れるべきではない)、対抗プランを提起できなくとも良いのです。自分が社会の設計者のように錯覚すると、目が曇ってしまいます。「善きサマリア人」は、こんなことを気にしていませんでした。
患者さんが「自分はこのように生きたい」という声をきちんとあげること、その声を患者さんから「この人となら」と認知された周囲の人がきちんと受け止めることにこだわり続けること。そんな関わり=そんな声が集まることから、事態が流動化し、システムが生まれることの可能性を見据えるという選択肢があります。「生きることを無条件で肯定する。そしてどんなに生きづらくとも、とにかく生き続けてみる。そのような人を認めて分配する社会を、みんなが信じれば、そうなります。ただ存在することがこれからは『運動』になるのです」(川口有美子・雨宮処凛「死なせないための、女子会」現代思想vol.47-7)という選択肢です。
その時、私たちは次のような問いに晒され、自分の生き方をもう少し深く見つめ直すことが必要になります。
「『死』を規定するとされる『人びとの諸関係』の内実が問われない限り、『共鳴する死』は、社会的弱者へすべての矛盾をしわ寄せすること(高齢者本人が共鳴し納得したうえでの「姥捨て」など)や、『共鳴しない生』に対する抹殺(ナチスによる「ユダヤ人」などの虐殺)へと容易につながりかねない。…外部の排除と内部への抑圧を前提としてはじめて『共鳴』は可能となるのではないか。」(美馬達哉「医療神話の社会学」世界思想社所収)
「患者の希望」は、医療者が関わる中で創り上げられるかもしれません(「適応的選好」などという難しい言葉があるようです)。信じられるようになった医療者の思いに左右されることは、ありそうです。人は皆、自分へのいたわりと周囲の人へ気遣いのバランスの上で、他人に「悪く」思われないように生きているのですから、家族への気配りが決断を動機付けることが少なくないでしょう。私たち自身が、患者が気を遣わなければならない周囲の人になってしまうのが普通なので、医療者との「良い」つきあいがプレッシャーになる可能性も大きいのです。合意に至る過程で、倫理学で言われる「往復均衡」が重ねられるはずですが、そこにも力関係の差がまとわりつきます。「あの医者のために、こんな選択をしてしまった」という可能性が、付き合いが深くなればなるほど大きくなるかもしれません。「正しかったかどうかはわからないけれど、あの医者と話し合っての結論だから、まあ良かった」と患者さんが納得することで折り合いをつけるしかないことが少なくないかもしれませんが、その場合でも私たちはその結論の意味を考え続けなればなりません。その時、「汝の意思の格律が常に同時に普遍的立法の原理となるようにせよ」(カント)という問いが聞こえてきます。
患者さんの心の奥は私たちには見えませんし、時には当人にも見えません。「患者が延命処置を望まない」「家族が延命処置を望まない」「・・・・をする」「…をしない」と決断しても、その奥にある思いはそれぞれ違うはずですし、状況や情報が違えば別の選択が行われるかもしれません。倫理にはclearな「正解」はないのです。そして、どのような選択をしても、「あれで良かった」と医療者は納得してしまわないことが、その後のケアの源です。
「生権力を普通の人々が行使する。健康な市民たちこそが、生権力を振り回している・・。」(小泉義之「生と病の哲学」青土社)
日々更新される医学的な知は普通の人には理解を超えており、その肯定的な成果の一部分がマスコミなどを通して流布されます。「健康」「良い生き方・死に方」と言った言葉が私たちを取り囲みます。こうした「意識操作」が人々の「生きたい」という願いと結びつき、人は自ら自分の生き方を管理してしまう(進んで自ら管理する)状況になってしまっており、私たち医療者はそうした管理の最前線で働いています。健康概念に管理されて生かされているのは、私たち自身も同じです。
そんな自分の価値観・人生観と対峙し自分の生を問うこと。自分の考えを絶対視して人や事象の正否を裁断してしまわないこと。患者と関わること自体に、他人の人生に介入(支援・援助)するという一定の「権力性」が伴い、その権力性ゆえに付き合いはゆがめられざるをえないという現実から目を逸らさないこと。医学の知・医療の枠組みを不動のものと絶対視せず、場合によっては「医療の枠組み」をずらし超える姿勢をもつこと。自らのありように対峙し、医療の枠組みをずらし超えることを視野に入れないで倫理を考えることには無理があるのです。
倫理は、「相手の人を徹底して尊重する」「人の生きるということを徹底して尊重する」というところからしか始まらない。「隣人を自分自身のように愛する」という言葉は今も生きています。もともと他人の気持ち・苦しみはわからないし、まして病む人の気持ち・苦しみはわからないのですから、その人の存在をそのまま認め、その人の前で立ち止まり、踏みとどまって揺れにつきあうしかないのです。このような姿勢は誰もが行わなければならないことではありませんが(カントの言う「不完全義務」)、人の「生き死に」に関わるのですもの、これくらいは引き受けないと、ね。そして、それはそんなに難しくないはずです。恋愛している人同士ならばこのような態度は自然に取っているのですから。(続く)(2013.11)