東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.15

これってファシズム・・・? No.2

日下隼人 「死に方」が語られる時代であることにも怖さを感じます。ことさらに死が語られる時代は必ずしも良い時代ではないと思います。60年前の戦争の時にも「美しい死に方」が語られたのに、いままた「良い死に方」が語られています。教科書での沖縄戦の記述が問題になるということは、「あるべき死に方」を語るべきではないという次元で捉えられなければならないのに。 なによりも「尊厳死」というような言葉が問題だと思います。人の「死」に、尊厳なものとそうでないものとがあると考えることは退廃ではないでしょうか。ある死に方を「尊厳だ」というからには、尊厳でない死に方(生き方)があるということを同時に意味しています。どうして、どのような人間の生き方も死に方も、とにかく人間の生死についてはすべてが尊厳だというところから出発してはいけないのでしょうか。
 死は何歳の人にとっても不条理なものだし、人間が生きていることだってそう自然なことではないのですから、「延命治療」と言われることだって悪いとは言えないでしょう。その人が生きる時間を1秒でも長くしようとする努力に意味がないなどということは絶対にないのです。最後の瞬間に近づく時は、周囲の人がその人と心を深く通わせる最後の、そしておそらくは最も濃密な機会なのですから、早めに見切りをつけてしまうような形でその“時”を軽んじると医療全体が軽くなってしまいます。
 人間はその知恵を用いて、病いという「自然」に抵抗してきました。科学技術が自然を作りかえ傷つけることで人間のいのちを広げてきたのが人間の歴史なのですから、たとえばICUに横たわって、人間の歴史の一員としてその自然科学の成果としての現在の医療を引き受けるようなことが「人間的でない」ということにはなりません。裸になって寝かされ、意識がなくて、いっぱい管が入っていても、周囲の人と心を通わせることはできるのですから、それが尊厳であるかどうかは、心を通わせようとする側の人間の問題なのです。花や木に心を仮託し、その成長を楽しみ愛するこの国の人の心に、「植物状態」という言葉が全く別の意味合いで入り込んでしまっていることは悲しいことではないでしょうか。
 「こんな形では生きたくない」という周囲の人の思いは、その人と心を通わせることを諦めている時にしか生まれないのではないでしょうか。そしてその人が“こんな形”を拒んだとき、「こんな形であっても」その人と心を通わせたいという何人かの人の思いを拒むことにもなります。心を通わせる時間と場所を大切にし、その“時”を豊かなものにすることのお手伝いをするという意味で、尊厳な生の最後の時間と空間を私たちは十分に尊重できているでしょうか。医師は「どうせあと3日」というように思うかもしれませんが、病者の家族にとってはその3日はかけがえのないものです。3日という時間は、病者と心を通わせるためには限りなく豊かな時間です。医療者は、それを妨げる人間にも保障する人間にもなりうるのです。これも間違いなくコミュニケーションの課題です。

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