東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.150

医療倫理とコミュニケーション(5) 病床に横たわる視線

日下隼人    研修が始まってしばらくすると、研修医たちは「患者って馬鹿が多い」「どうしようもない人がいる」「こんな人と付き合っていられない」と心のどこかで感じるようになります(こんな言葉ではっきりと感じてはいないかもしれませんが)。
   医学の膨大な知識を持っている身から見れば、医学知識のないシロウトの言うことを聞いているうちに、「バカ?」と思ってしまうことがあるでしょう。医者の持っている知識から導き出される方針はシロウトには理解できないことがほとんどなのですが、そのことに「イライラ」してしまうこともあるでしょう。病気の人は医師から見れば「理不尽」な言動を取ることも少なくありません。「そんな言い方をしなくてもいいのに(もうちょっと、うまく言えばいいのに)」と思わされるようなことを言う人は、医者だけではなく(医者の得意技ですが)、患者さんにも少なくありません。
   誰でも病気になります。中には、本当に言葉が理解できない人もいます。会話より怒鳴るほうが、さらには怒鳴るより相手の身体に痛い思いをさせるほうが、自分の思いを伝えられると思っている人もいます(教師にもいるくらいですから)。卑屈になることで医者とうまくやり取りしようとする人もいます。医者になるような生育歴の人には想像もつかないような「複雑」な生活をしてきた人・「辛い」人生を生きてきた人たちもいっぱいいます(このように表現すること自体に問題がありますが)。人生を「捨てている」ような人もいます。「理不尽」とも思わされる「攻撃」を医療者にし続ける病気の人もいます。社会のアウトローもいます。「金」や「権力」にモノを言わせる人もいます。
   こんな人たちは特殊だ、まともな(と自分が判定する)人だけを診たい(自分に「文句」がある人はよそに行ってくれ)、騒いだり脅したりする人は警察に通報する、というような反応をする医者のいることが理解できないわけではありません。これまで出会ったことのない人と付き合うことへの防衛反応かもしれませんが、そうせざるをえない場合も確かにあることがその思いを強化します(そうしたこちらの身構えが相手のそのような態度を生む、という側面もあるところが、事態を難しくしています)。
   そのとき、「困っている人を助けたい」という学生時代の想いは、「『良い子』にしていたら助けてあげるよ」に変わります。患者は小さな存在になってしまいます。そうなると、患者との付き合いは仕事として必要な範囲で行うことにとどめることになり、共通の知識や世界観の近い人たちの集まり(学界や医師会)での付き合い(その世界の一員として生きていくこと)こそが自分の人生の中心だという方向に流れることになります。 価値観の近い人たちとの「内輪の世界」の付き合いは平穏で、そこでの業績は社会的に評価されます(それしか評価されません)。もともと医者になるような人は勉強が好きですし、勉強で人と競う癖が身についていますから、学界で成果を上げて生きていくのは心地好いものです。小さい時から「他の人より優位に立って」生きてきている人が多いので、その特性を生かして病院管理や「政治」に関わる心地よさを手に入れる人もいます(これも「内輪」の世界の延長です)。「内輪」は心地好い世界であり、そこによそ者=患者を入れると平穏が保てなくなりそうです。「初心」を覚えているとこの心地よさが妨げられるので、「初心」は適当に改変されます(心理学的に言えば「認知的不協和」の低減です)。

   人の人生に接することが面白いということはきっとみんな知っています。その人の人生が書かれている書物を読んでみたいと思います(私はいつもそうです、覗き趣味なのでしょう)。ただ、そこに至るまでには「坂道 トンネル 草っぱら 一本橋に でこぼこ砂利道 蜘蛛の巣くぐって 下りみち」(となりのトトロ「さんぽ」)があります。その大変さがわかって、あるいは別の道に目が向いて、本を開く手前で引き返してしまう人は少なくないようです。高校生のころには、道が平坦ではないということまでは知らないのがふつうですから。
   でも、その人の医療者としての倫理性が最も鋭く試されるのは、どうしても不愉快に感じられる患者と接する時や、どうしても患者と「合意」が得られなかった時なのだと思います。レヴィナスの言う「応答義務」を果たしているかは、このような場合にこそ問われるはずです。とはいえ、がむしゃらに突撃することではありませんし、どんな患者も受け容れるべきだということではありません。そのような人と出会った時にも、他の人と同じようにきちんとつきあうというところに踏みとどまる人は、それだけで倫理的なのだと思います。医療の対象にしきれない(時には強制的に排除するしかない)人もいますが、そのような人であるかどうかを見極めることも、きちんとしたつきあいなしには不可能です。

   オリエンテーションでの看護体験と体験入院について、ある研修医の感想です。
   (看護体験)「看護師の方について回るだけでも大変な疲労感があった。肉体的にはもちろんのこと、排泄ケアや痰の吸引など患者さんと間近で接して、その苦しみやもどかしさを身近で見ることによる精神的疲労も含まれていると感じた。トロッカーを挿入される痛みや、構音障害のもどかしさは体験したことがないから想像するとしても限界があるような気持ちになってしまうが、点滴につながれる煩わしさや排泄をケアされる恥ずかしさは日常生活と地続きの苦痛であり、より身近に感じやすい。そのことが心のこもったケアが提供される素地にも繋がっているのではないかと感じる場面も多かった。
   さりげなく布団を奇麗に掛けなおしたり、窓の外の景色が見えるようにすると言った気配りは詳細な看護の知識がなくとも実践できることであり、自分でも今後続けていきたいと思った。」
   (体験入院)「大部屋のベッドに寝ると、思ったより視線が低くなると感じた。私たちは何気なく『今日はいい天気ですね』などと声をかけることがあるが、患者さんから見えている景色は私たちがベッドサイドに立って見る景色とは全く違っているのだろう。視線が低くなることで周りを囲むカーテンが強い存在感をもって目に入るし、不安な気持ちをもって入院している方にとってはそれを強くさせる原因にもなり得ると感じた。また、たった一枚隔てただけの空間に全くの他人がいるということを意識する機会も多かった(実際、隣の入院患者の方からカーテンを手で持ち上げて話しかけられた)。
   同室の患者さんが苦しんでいる声を聞きながら寝入ることができず、はじめは辛かったが、結局気がつかない間に寝てしまっていた。翌朝少し申しわけないような気持ちで『退院』した。」

   この文章に出会って、私はあらためて自分のしてきたことの意味に気づき、報われた気がしました。こんなふうに感じてもらいたいと思って、ずっとオリエンテーションを重ねていたんだ、と。
   病床に横たわる視線から書かれたこの文章には倫理の源となる姿勢があります。キラキラした医療者への道がそこにあります。このようなところから始まり、このようなところに繰り返し戻ろうとすることが、医療倫理についての思いを深めます。そうすることは、そんなに難しいことではないはずなのですが、忘れさせる力が大きいのも事実です。 (2013.11)

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