東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.151

たかが接遇?

日下隼人    「接遇とコミュニケーションは全く違う目的を持っているように思います。接遇の目指すものは『顧客に快適さを与えること』だと考えます。接遇上手なサービス提供者は顧客を満足させることができます。これは大変素晴らしいことです。しかしながら、『顧客に快適さを与えること』が達成されてしまえば、そこで終わりです。」ある医師のサイトにこのようなことが書かれていました。

   接遇研修を航空会社の客室乗務員に依頼するようなことには、私も違和感があります。海外旅行というハレの時、あるいは仕事で出かけるという日常の時の接遇と、「病む」という「負の」非日常の時の接遇はベクトルが違うのですから、方向が違う気がします。でも、接遇はそんなに簡単に達成されることでしょうか。
   良い接遇が相手を快適にさせることは確かです。では、なぜ相手は快適になるのでしょう。それは、自分という人間に敬意が払われているからです。とすれば、接遇の目的は、自分と出会う人に、自分がその人を尊敬していることを伝えることになります。なぜ敬意を伝えるのか。それは、そこからその人との付き合いが深まり、信頼が生まれるからです。接遇の目的は、信頼を生み出す土壌を作ることなのです。接遇の目的とコミュニケーションの出発点は、境目のはっきりしない、地続きのものなのです。No86で「ホテルの扱っている『商品』は決して客室だったりレストランの食事だったりではなく、私共を利用してくださるお客様ご自身が感じる『幸福感』なのです。つまりそれは、私共の手にはなくお客様自身の心の中にあるもので、私達はお客様が『幸せだ』と感じられるほどの感動を与える応対をしなければならず、・・・・・。私達も努力してお客様が『Bホテルに泊まって良かった』と思って頂けるように頑張りますので、お客様からもどしどしお声をお掛け下さい。『私はこうして欲しいんだ』と教えていただければ助かります。お客様のご協力を得て、お客様の『商品』を完成させるのも変な話ですが、まさにこの共同作業の中に私共の仕事の真髄があるような気がします」というホテル支配人の言葉を紹介しました。この支配人は「快適さを与えれば終わり」とは考えていないと思います。
   接遇はコミュニケーションの序曲です。序曲なしにオペラは始まりませんし、名曲の序曲はそれだけで何度も聴きたくなるものです。

   こんな文章が続きます。
   「接遇もロクにできないオジサンオバサン医師が、患者との対話の中で感動的な行動を見せることがしばしばあります。ひどい言葉を使いながらも、その医師が患者と真に向き合い、診療に関する自分の意図を話している光景、患者の意図を読み取ろうとしている光景を見て、研修医も『ああいう医師になりたい!』と、グッとくるわけです。」

   医療者の態度が悪くとも信頼関係が生まれることはあります。でも、ここで書かれている「感動」は、あくまでも「真に向き合っている」つもりの、「する側」のものです。教えるべきは、「信頼関係が生まれている」ように見えていることの影の部分です。「接遇もロクにできない」医師であっても、その人を信頼するしかない弱い立場にいるのが患者です。高名な病院の医者なら尚更で、患者は医者の後盾の病院名を信じます。そして、どの場合も、信頼関係は患者さんの大きな歩み寄りから生まれていることが少なくないのです。医者を専門家としては信頼しても(信頼するしかないと覚悟をきめて)、「この言葉遣い、この態度」とあきれつつも、「まあ、医者ってこんなものだものね」と医者を許してくれているかもしれません。こんなものだという既成の像が患者にはインプットされています(だからこそ、その像とは違う医者に出会った時に、驚いたり新たな感動が生まれたりするのですが)。
   なによりも、医者の悪い態度のために、その医者とどうしてもうまく行かなかった人もいるはずです。こうしたことに気づいてもらうのが教育です。「接遇もできない人」を肯定することは、ちゃんと患者さんとつきあえていない医療者、患者さんを無自覚に傷つけている医療者を、そのまま承認してしまうことにつながります。研修医がなりたい「ああいう医師」の姿が、接遇もロクにできないことで患者さんの心を傷つけている部分でないという保証はありません。
   医療が「円滑に」進むのは、いつも患者さんが大きく歩み寄り、驚くほど私たち医療者を赦してくれているからなのですし、そのことを伝えるのが私たちの仕事のはずです。医療を巡っての議論が溢れていますが、その論で誰がまっさきに楽になるのかという視点から吟味するという方法があると思います。患者さんが真っ先に楽になるのでないような論は、誰が言おうと、どのようにもっともらしく聞こえても、立ち止まって疑ってみるべきだと思います。

   人に心から快適になってもらうことは至難のわざです。相手の人が病気の場合には尚更です。そして、その快適さはほんの一言・些細な所作で生まれ、ほんの一言・些細な所作で壊れます。「快適さを与え」ればそこで終わりだとしても、それは永遠に辿りつけない課題です。いつも序曲は完璧には演奏されないのです。だからこそ、少しでも良い演奏をしたい。「接遇はその程度のもの」と教育することは、すべてを壊しかねないという気がします。(2013.12)

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