「マニュアルに沿ってやれば臨床は楽しくないんだ。だんだん自分が機械かアンドロイドのようになってしまって情けなくなるんだ。楽しくない気持ちが出てきた時に、楽しくない気持ちの方を自分で叱らないで、『楽しくないじゃないか。そうだ、楽しくないんだ』と自信をもって・・・。」という文章に出会いました(「神田橋條治 医学部講義」創元社2013この本は、面白い人にはとても面白いと思います・・・あたりまえですが)。
勉強が好きでたまらない(らしい)研修医たちを見ていると、出来の悪い学生−研修医だった私は少し心配になります。小学生のころから受験勉強に励んできた人たちにとって、同級生に「負けない」ように勉強にのめりこむことは、案外楽なことなのかもしれません。そのような志向に応えて、勉強の機会をたくさん提供する研修病院が良い病院とされる傾向があるようです。研修医指導が、正しい知識をたくさん教えこむことや、身体がすぐに反応するような医師を育てることだとされがちです。研修医の書棚には「〇〇マニュアル」が並んでいます。研修の場で、「カーナビ」のように目的地に一番早く着くコースを示す指導が望まれがちな雰囲気があることが気にかかります。
もっと人と付き合うことに戸惑ってほしい、迷ってほしいと思いますし、そのような「ゆとり」を提供することが医師の教育には必要だと思います。歩き出した今だからこそ、すぐ答えの出ない問いに向かい合い、留まり続けることを経験してもらうことこそが大切なのだと思います。迷わないから「楽しくない」のですし、迷うことでしか得られない成長があります。
先日、共用試験のCBT(Computer Based Testing)の問題や107回医師国家試験の問題を全部見て(国家試験の委員をしていた4年の間には小児科の問題しか見ていませんでした)、今の学生は難しいことを勉強しているのだと感心しました。共用試験、卒業試験、マッチングのための研修病院採用試験、卒業試験、後期研修病院採用試験、専門医試験とずっと試験が続く人生に若い人たちは違和感がないのかもしれませんが、それだけに、自分の学んでいる医学を視座を変えて見つめなおす機会や、戸惑ったり迷ったりするようなゆとりを体験する機会が得られるのだろうかと心配になります(ただの老婆心です)。
「助手席で、道路地図を広げながら、運転者と一緒に悩む」「車を路肩に止めて、二人で地図を見ながら相談する」ような研修医指導は、その指導医の姿そのものが教育です。
いろいろなサイトで「困った研修医」がいくつも挙げられています。なかには本当に困っただろうなと思わされる例もありますが、病院のあり方がその事態にいくらかは責任があると感じさせられるものの方が多いような気がします。指導医から「困った」と見える人の中に、「優等生」とは違う秘められた力を持っている人たちがたくさんいる筈です。いや、優等生もそのような資質を持っていて、隠しているだけかもしれません。指導医から「困った」と言われがちな資質が、案外患者さんに近いところにいる場合もあるのかもしれないのです。2年でひとかどのものになるほど医療は甘いものではありませんし、人生はいくつになってもわからないものです。そのことを畏れる謙虚さを伝えること以外に、教育にできることは余りないのだと思います(勉強は勝手にしてしまいますし)。
「尊敬しなさい」「謙虚にしなさい」といくら言っても効果がないと書いている人がいました。こうしたことが、指示的な言葉で教育できるはずがありません。指導者にできることは、自分が患者さんを尊敬し、後進を尊敬する態度を心からとることしかないのだと思います。「謙虚さ」は、傲慢の裏返しですから、自分の傲慢なところをきちんと見つめないところには生まれません。指導者にできることは、教えることではなく、こうした思いを伝えることです。すくに目に見える効果が出ることではありませんが、長い医師としての人生の中で出会う患者さんたちが縷々気づかせてくれるものです。その時のために、気づける「手がかり」をさりげなく研修の心の中に埋め込んでおくことが教育です。長い人生の中でも学べなかった「経験豊かな」医師たちは、「手がかり」を埋め込まれたことに気が付かなかったのかもしれません。(2014.1)