もう担当ではないのですが、2013年の武蔵野赤十字病院初期臨床研修医採用試験での論文を読ませてもらいました。臨床実習で、患者さんに感謝された経験を書いている学生が多いことに驚きました(試験対策本に書いてあるのかもしれませんが)。学生の立場で、足繁く病床に通うことで患者さんと何かがふれあい、感謝の言葉をもらった経験が、これからの医師としての人生に生きると良いのですが・・・、それだけではちょっと。
学生はほとんど徒手空拳で患者さんのそばに行きます。頻繁に通って、話し相手になることしかできることはありません。そうしたことで感謝の言葉をもらいますが、医師になれば、医師としての仕事で感謝の言葉をいっぱいもらうようになります。でも、この二つの場面での感謝の言葉は質が違います。きっと、学生時代に受ける感謝の言葉のほうが重い。言い換えると、徒手空拳でそばに居ることで受ける感謝は、医学的処置をすることで受ける感謝とは質が違う。そのことに気づかないと、医師になって感謝の言葉を(しばしば儀礼的に)受けることで、「人に感謝される仕事をしたくて、医師を志した」思いは満たされてしまいます、深い感謝が受けられなくなっているかもしれないことに気づかないまま。そのことに気づかないと、治療の手段が無くなった患者さんのそばに行かなくなってしまいます。
そのまえに、感謝の言葉で患者さんは何を伝えたかったのかを気にしていたい。もちろん、学生が話を聞いてくれて、少し心が和らいだということはあるでしょう。年配の人間にとって、若い人と話せることはそれだけで嬉しい。あまり専門家でない人と話せることで気が楽になることもあるかもしれない。若い人に何か「遺言」のように、自分の思いを伝えられることも嬉しい。「良い医者になってね」という祈りの言葉かもしれない。学生の先生になった気がして嬉しい(いつもは「される」存在にとどまることは寂しく、「してあげる」存在になれることが嬉しい)。
しかし、気遣いからの感謝の言葉なのかもしない。あるいは、思いのすべてを感謝の言葉に込めているのかもしれない。いろいろな思いを抑えているのかもしれないし、感謝の言葉でしか表せないのかもしれない。人生の最後近くになれば、感謝の言葉を発すること(だけ)が、その人を支えるということがあるかもしれない。どのような患者の言葉も、患者の人生から絞り出されているのだということを、大学の教育で伝えていてくれるでしょうか。「本当に学生は嫌だ」と最後まで言う(しかない)人を、それでもどこかで支えることが医療者の仕事なのだということを伝えていてくれるでしょうか。学生の論文からだけでは、そのようなことは読み取れませんでした。
昨年までは面接をしていました。面接の最後あたりで「座右の銘」を訊くと、「為せば成る」「努力は報われる」というような言葉を挙げる学生が時々居ました。そんなふうに励まされて、あるいは自分を叱咤して、勉強してきたのでしょう。それがうまく行って、彼らの現在があります。
「君たちは、小学校から大学入学試験までたくさんの人を蹴落としてきたのだけれど、蹴落とされた人たちにそのことが言えますか」とか「努力の成果が出る前に突然の病いという『理不尽』に出会ってしまった人に、そのことが言えますか」「生まれつきの病気で、そのようにチャレンジすることのできない人に、そのことが言えますか」と言ってみたい衝動に何度もかられましたが、この場で訊くのはいくらなんでも「いじめ」に近いと思い、とうとう言わずじまいでした。私は気が小さいのです。
私ならばなんと応えるでしょう。私は高校生のころから「春風駘蕩」という言葉が好きでした、今も。学生運動の時代から現在まで「駘蕩」な人生を送ってこなかったのに、それでもこの言葉が好きです。「朧月夜」の歌詞が重なりもします。でも、試験にはいかにも通りそうにない言葉ですね。そういえば、Equalには「対等な」という意味と「平穏な」という意味(古義)があるということを知ったのも、そのことを研修医採用試験の論文に書いてくれた医学生のお蔭です。対等な関係が先にあるのではなく、平穏な関係が生まれたとき、その関係は対等になったということなのだと思います。駘蕩な関係が生まれることがコミュニケーションの目的だとも言えますから、あのころから今につながる言葉が好きになっていたのかもしれません。(2014.1)