「死にゆく患者さんの傍らに寄り添い、その死にともに向かい合い、受け入れる手助けをすることで人生の最期である死をよりよく迎えることを可能にするのではないかと思う」と研修医採用試験での学生の論文にありました。ずいぶん一生懸命考えてきた学生だと思いますし、そのことだけで若い人に希望を託せると感じます。
でも、もう少し考えてほしいし、その場を提供することが臨床研修に求められているはずです。
人は死に向かい合えるのでしょうか。死を正面から見つめなければならないでしょうか。「受け容れ」なければならないでしょうか。「受け容れる」ほうがより良い死を迎えると本当に言えるのでしょうか。せっかくこのように考える学生が居る時、大学ではこうした問いを掘り下げる教育をしてくれればと思います。
ずいぶん前のことですが、「死を正面から見ることができるか」と書かれたポスターを見て、私は怯みました。死を正面から見つめられる人など本当はいないでしょう。「自分の命は自分から」「あなたが命の主人公」「事前指示」「より良い生き方・逝き方」といった言葉が、「元気そうな」人の口から浴びせられる光景が、温かいものであるとは思えません。そこでは「強い」人が求められているようです。そのとき「見つめられない」人は、「自分が悪いのではないか」という思いに追い込まれてしまいがちです。周りの雰囲気が一つの方向に流れてしまうと、信じていなくとも、その流れに自分も乗れているような顔をせざるを得なくなりがちです。
死を間近にしても「強い」人であることを求められることには残酷さが伴います。特攻隊のように振る舞わなければならなくなりそうです。「強さ」を求める心はファシズムにつながります。今の時代、ファシズムは怖い顔で迫ってくるものではないでしょう。70年前のものよりはずっとスマートです、あの時の経験から学んでいますから(だから、ファシズムの進行への抵抗を戦前とのアナロジーで行うだけでは余り有効ではないということを、最近感じました)。耳に響きの良い、もっともらしい言葉が私たちを取り囲んだとき、そこに危うさが付きまといます。
「良い逝き方」という言葉の中には大量虐殺のにおいがあります。もっと露骨に「多死社会における医師の役割」などという言葉が平然と語られるようになっていますが、その言葉には生への畏怖の念が感じられません。生への畏敬の念が失われたところにファシズムが生まれます。
きっと人間はそんなに強くありません。そもそも「強い」という言葉にはポジティブな匂いがつきまとい、強いほうが偉い・良いと受け止めがちです。でも人はそんなに強くありませんから、強くあろうとするときには代償が伴います。その代償の部分とつきあうことこそがケアです。お互いに「弱い」人間どうしとして、死の影に一緒に震えながら、それでもそばに居続けて時を過ごす。ターミナルと言われる場面に限らず、ケアとはそういうことではないでしょうか。
「受け入れる」という言葉は、受け入れる側が自ら言うときには温かいものかもしれませんが、他人に向かって投げかけられるときには抑圧的な感覚が付きまといます。「折り合いをつける」と言う方がましですが、それとても、人生のどの場面であっても「折り合いをつける」ときには人は何かを諦めるしかありません。何かを諦めることへの「忸怩たる思い」をそっと見守る(お互いに見守りあう)時に、かろうじて心が通う細い途が生まれます。
偉くなくたって(偉くないほうが)「良い」のです。
先日、やなせたかしさんが亡くなりました。アンパンマンマーチに馴染んで育った世代の人たちがもう医者になっています。あの歌詞を忘れずに医者を続けてくれるとうれしいのですが。(2014.2)