このところコミュニケーションに関する本が次々出されるのですが(私もその一人なのですが)、「どのように努力しても医療の場でのコミュニケーションは難しい」ということは余り書かれていません(「こうすればうまく行く」という感じで書かれています)。
医療者の側が心がけるだけで、説明が分かりやすくなることはたくさんあります。でも、それで話が通じるのは、相手の人の心が開かれ、話を聞く準備状態ができている時だけです。病気の人は、病むことで心を閉ざしてしまいますし(他人の言葉を吸取紙が吸うように吸収できる状態ではないという意味です)。医学生のように、医学の言葉を受け入れる準備をして日々生きてきているわけでもありません(ちなみに私は、講義を聞いても分かりませんでしたし、それ以前にいつもサボっていました)。患者さんは、不快と不安の海に溺れそうになりながら、早く良くなりたいと思っていろいろなことを考えるからこそ、その千々に乱れる思いのために医療者の話が聞こえなくなっています。「良くなる気がない」から聞こえないのではありません。
「こうすればコミュニケーションが取れる」と教育することは、教えられた通りにしてもコミュニケーションがうまく行かない時、悪いのは患者だと勘違いする医療者を作ることになります。コミュニケーションの教育は、コミュニケーションの成り立つことが至難のわざである医療の場の性質を説き明かすことにつきると思います。「こんなふうにするとうまく行く」と書かないと勉強してもらえないと著者は考えがちですが、「コミュニケーションは取れないけれど、それでもこれだけのことをきちんとしていれば、なんとか前に進める」と伝えられないでしょうか。何をすればよいかは、どこにどんな「落とし穴」があるかを知れば少しは見えてくるはずです。
言葉は大切ですが、それは医療者が考えるほど有効な道具ではありません。敬意に支えられた雑談と手(日々の通常の介護や処置のための丁寧な手)の方こそ、私たちの大切な道具だということも、もっと伝えられなければなりません。
欠如態から語られるべきなのは、医療のどの場面にもあてはまります。
ケアとは何かということは、ケアの欠如態(患者さんが「ケアしてもらえていない」と感じるところ)からしか見えてきません。私は40年以上医者をしてきたのですが、私がしてきたことの意味は「見えなくなった」人から考えるべきだと思っています。いつの間にか外来に来なくなってしまった人。うまくつきあえなかった子どもたちや親たち。亡くなった子供たち。診断や治療がうまくいかなかった子どもたち。私がうまくつきあえなかったスタッフたち(私が傷つけた人たち)。その人たちにとって、私という医者は、私が行っていた医療は何だったのか。
ずっと外来に来てくれる人、重い病気なのに「良い」つきあいができ、その病気から治った子どもたちを見ていることは私を支えてくれますし、自己満足できますが、そのことだけで自分の医療を総括することは大切なことを見失ってしまいます。これは、「自責の念」というようなこととは別のことです。(2014.2)