東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.16

これってファシズム・・・? No.3

日下隼人 「死ぬ権利」「生を選び取る」と言う時、「どんなことをしても延命してほしい」「どんなに苦しくても、管がいっぱい入っていても生かしてほしい」という途を選び取ることは、顧慮されていないようなのです。そちらの選択をきちんと保障しないような論議はおかしいのです。「死ぬ権利に対比されているのは、生きる権利ではなく・・・ただの生、低次元の生、生き延びるに値しない生である」と小泉義之は言います(「病の哲学」)。「『過剰』な治療はいやです」と言わなければ「非国民」と言われてしまいそうです・・・その背後にある医療経済の問題は伏せられたまま。 「どっちみち死ぬ者はさっさと片付いてもらう」という本音を美しく覆う「尊厳死」という言葉」(中島みち「『尊厳死』に尊厳はあるか」)
 「自分の死に方は自分で決める」とよく言われますが、そもそも死はそんなに個人的なことでしょうか。人の死に方は、それまでその人が周囲の人と築き上げて来た人間関係によって決まります。どんな形であってもその人に生きていてほしいと家族が思い、それがこれまでのつきあいの帰結ならば、その家族の思いのように生きる(生かされる)ことが、死にゆく者のこの世での最後の務めです。遺された人の心が少しでも満たされるように、最後の日々を自分の身体において引き受けるということが、社会的動物としての人間の仕上げの仕事ではないでしょうか。死んだ後に周囲の人に悔いを遺させないように、周囲の人が望むような死を生き切ること。死もまた、それまでの人生のすべてがそうであったように、周囲のみんなと支えあうものであって、自分だけのものではないと思います。最期に近づけば近づくほど、自分の命はもう自分のものではない。「死はいかにも自己的に見える。だが、死の淵に立っているものはもはや他者のことしか考えない。日常性が他者のまなざしの交錯のなかに位置づけられている日本人にとっては、とくにそうだ。」(安永寿延「日常性の弁証法」)
 このようなコミュニケーションをそっと見守るのが医療なのではないでしょうか。

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