東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.160

人の気持ちなんかわからなくとも

日下隼人    他人の気持ちはわかりません。まして、病気になった人の気持ちを「元気な」人が感じ取ることは至難のわざです。とすると、「病者の気持ちの分かる医者」というのは、もともと「ないものねだり」だともいえます。そのことを教育目標にすることには、無理があるのです。その「無理さ」を明らかにして、「それでも、これだけはしよう」と語りかけることこそが教育だと思うのですが、大学の先生たちは「できないことから考える」ことが得意ではないようです。最近私の卒業した大学のパンフレットに「世界を先導するリサーチ・ユニバーシティへ」というスローガンが書かれているのを見て、「ないものねだり」の感を深くしました(「母校」と思うと、少し寂しくなりました)。医療倫理や科学哲学などの教育や「良き臨床医」の育成などについての記載を、私は資料のなかに見つけられませんでした。

   学生時代に、倫理の話は鬱陶しい、チーム医療や看護、緩和ケアについて学んだことがない(聞いても耳に入っていなかったのかもしれません)と研修医たちは言います。「そんな教育で良いのか」という言葉がのどもとまで上がってきますが、「それも仕方ないところもあるのかも」と押しとどめもします。
   医者は自然科学を学んでいる(研究している)と思っていますし、優等生で育ってきていますから、勉強をすることも、そのことで人と競うことも大好きですし、それが生きがいになります。研究の先には「出世」も待っています。(私はよっぽど「優等生」に恨みがあるのでしょうね。そして、人と競うことが大嫌いです。) 医学者は、自然科学的な目に見える成果を得ることに邁進すれば良いのであって、哲学も認識論も必要ないと思いがちです(ほんとうは、研究の根底には哲学も認識論も存在しているのですが、それは当為のものであり、それを吟味したりウダウダ議論したりすることは自分の仕事ではないということでしょう)。臨床医は、的確な診断をつけ、それに見合った治療を行うことができ、医療技術が早く正確にできればよい。そんな考えも「あり」だと思います。みんな「患者さんのため」になります。

   医学や医療の場合、どんなことでも「患者さんのために」という言葉がつけば、それでその仕事の意義はそれ以上問われなくなります。中味の曖昧な「お守り言葉」の典型です。「患者さんのために」ということが、どのようなことなのかを深く吟味することは、ほとんどの場合なされません。「いつでも、それは『患者さんのため』になるか」と自問せよ」と言われることはあっても、どう問えば良いのかは語られません。医療におけるたいていのことは、一面では「患者さんのため」になることだと言えますし、同時に「患者さんのため」にならない側面が必ずと言ってよいほどつきまといます。そうしたことを突き詰めて考えないことには精神的怠慢がありますが、自然科学の成果が見えやすいのに対して、人文科学的な思考は人によって言うことがまちまちだし成果もわからないだけに、回避されがちです。
   目先の「利益」が少しでもあれば、それで良いとされ、それ以上のことは問われません。「不妊」で悩む人が居るのだから不妊治療を行う。けれども、「『不妊』を悩ませる心理とは何か、社会とは何か」といったことは問いません(「そんなことは医者の仕事ではない」と思っています)。不妊に悩む人を助けたいと思う医師が、一方で患者の悩みのすべてに応えようとしているわけではない(医師にとって不都合な「悩み」には対応しない)という矛盾を問うこともありません。不妊はほんの一例です。
   研究者の途を選んだ人たちが判で押したように「目の前の患者さんを助けたいと思ってきたが、その患者さんを助ける方法を見つけることでもっとたくさんの人を救いたいと思った」と言います。突っ込みどころ満載の言葉であることに、言っている人は気づいていないのかどうかは不明です。

   でも、私は、「少しの目先の利益」が得られることには十分意義があると思っていますし、ほんとうの理由が何であれ研究者の途を選んでくれる人が必要だと思っていますし、いろいろな価値観のことを考えないようにして自然科学的研究に邁進する人生は「あり」だと思いますし、その研究成果が最終的には(少なくとも一面では)患者さんのためになると思っています(短期的には患者さんの害になるものがしばしばあるのですが、そのことが研究を否定することにはなりません)。「患者のために」と言うことが出世と結びついても、かまわないとも思います。医学的知見が絶対的なものではないし、人の生きることに関わるものですから社会的な影響を免れないと思いますが、医学の知が社会的に構成されたものでしかなく、その正しさの根拠は人の心(視座)が決めているに過ぎないというようには思いません。
   医者は患者の心なんか気にしていられないし(どんなに気にしたってわからないのだし)、自然科学としての医学を勉強する、あるいは「職人」として的確に医療を提供できるように精進することが本筋だという思いには根拠がありますし、とってつけたような(教育者が本当はあまり価値を認めていない)「心の教育」を行ってもたいした成果は上がらないと思います。うまく治療をして、患者さんから半ば儀礼的な、あるいは「目先の利益が得られたことについての心からの」感謝の言葉を受けることも大切なことです。

   それなのに、です。「医者は患者の気持ちなんて分からなくて良い」と思って医者をしていても、医師としての人生で何度かは、意図せずに何かが分かってしまったり、患者さんの心と触れ合ってしまったり、患者さんに入れ込んでしまうことがあるはずです。あるいは、どうしても患者さんのことを見ているのがつらくてたまらない(身につまされる)時があるはずです。
   教育者が試されるのは、そんな時です。この場面を見逃したら、教育などとわざわざ言うべきことが医療の世界にあるとは思えません。先に生きたものがすべきことは、若い(若くなくても、ですが)医師に、「どうして『触れ合って』しまったのか」「『触れ合った』と、どうして感じたのだろう」「その思いを大切に抱えながら、患者さんとどのように付き合っていけばよいのだろう」という、投げ捨ててしまいたくなりがちな問いを自問していくことを促し、立ち止まって自問することの意味を一緒に考えることです。その時、相手の気持ちが分からなくとも人と人とがつきあえることがわかり、人と人とのつきあいに自分の人生の意味を確認する何かが見つかるはずです。「相互主観性」とか「匿名的身体性」などという言葉は、その後から付いてくるのかもしれませんが、そんな言葉を知らぬままでも良いのです。こうした体験を、どうすれば自分の臨床のさまざまな場面で生かすことができるかと悩んだときには、そんな言葉が役に立つこともあるかもしれませんが。 (2014.3)

▲コミュニケーションのススメ目次へ戻る        ▲このページのトップへ戻る

 

プライバシーポリシー | サイトマップ | お問い合わせ |  Copyright©2007 東京SP研究会 All rights reserved.