東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.161

病いへの謙虚さ

日下隼人    小児科の救急では、軽症の患者さんがいっぱいきます。つい「この程度は大丈夫ですよ」とか「心配のしすぎだよ」と言ったり、時には「こんな軽い症状で救急外来を受診してはいけない」と患者教育をしてしまう医者も出てきます。でも、それが重い病気の初期症状のことがあります。初期症状ですから「見落とす」ことがやむをえない場合の方が多いのですが、あとで家族から「責められる」ことがあります。
   それは後出しじゃんけんのように無理無体なことだと医者は感じがちです。しかし、多くの場合、「診断の遅れ」だけで責められているのではないような気がします。家族の心配を軽くあしらってしまったり、当面考えられる結論だけを言って医師が考えてきたプロセスを説明しなかった(「答え」を出して終わりとするのはマークシート時代の影響でしょうか)といった背景のあることが多いようです。
   「(こういう理由で)考えにくいけれど、簡単には否定しないで気をつけて経過をみよう」と思っていれば、家族への言葉遣いも変わるはずです。それが「病気に対する謙虚さ」です。病気に対する謙虚さと患者さんに対する謙虚さとは表裏一体のものです。病気に謙虚になっている時、患者さんにも謙虚に接するはずです。患者・家族に対する謙虚さが感じられなければ、その医者はきっと病気に対しても謙虚でないと思われるのです。「謙虚に病気を見ないから、見落とすのだ。その傲慢さは、自分たちに対する態度からうかがえる」と思われてしまいます。だからこそ、後から別の(重い病名の)診断がついたときには、医者が悪いということになります。診断が正しかった場合でも、謙虚さを感じられなかった医者をまた受診したいとは思わないでしょうが。
   二つの謙虚さが表裏一体のものとして息づいていることを「病いへの謙虚さ」と言っても良いのかもしれませんが、「病い」と「疾患」の違いが通じないこともあることが残念です。

   そういえば、昨年の4月に「忙しすぎて、イライラしてしまい、患者さんの話が聴けない」と2年目の研修医が相談に来てくれました。退職後の私に相談するくらいですから、よほどのことだったのでしょう。でも、このことに気づいてくれただけで、私は嬉しかった。謙虚な姿勢の無い人は、気づかないものです。
   「そのことに気がついただけで十分だから、今は無理しないでいいよ。こんな時は、できる範囲で接していればいいんだよ。イライラしたら深呼吸してね」といったことしか言わなかったのですが、しばらくしたら「大丈夫になりました」と報告してくれました。
   自分にゆとりがないと、人の話を聴くことはできませんし、謙虚でいることもできません。忙しい時には、どうしても上から目線になり、言葉も態度も粗雑になります。「話を聴きなさい」「謙虚にしなさい」というだけでは、教育ではないのです。話が聴けない人に、「いま、いっぱいいっぱいかな?」と尋ねるだけで、話を聴く背中がずいぶん支えられます。 (2014.3)

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