「おかげさまで元気です」という言葉を聞いたとき、正直なところ私は意表を突かれました。研修医の医療面接演習で、研修医同士でロールプレイをしてもらった時のことです。
「ご家族のことについておうかがいしたいのですが、病気の方はおられますか」という医師役の定型的な質問に対して、患者役の研修医がこう言いました。これまでずいぶんロールプレイを行ってきましたが、患者役の医療者から「おかげさまで」という言葉を聞いたのは初めてでした。研修医といえどももう医者ですし医療面接について大学で学んでいますから、研修医同士のロールプレイだと、この定型的な質問については「元気です(誰々が〇〇です)」とすんなり答えてしまうのが普通です。患者役をしていても、医者から抜け切れないものなのです(大学を卒業したところの研修医でも、頭の中は十分「医師頭」になっているものです)。意表を突かれた私も、医者から抜け切れていなかったのでしょう。私自身あまり使わなかったこの言葉を、私よりずっと若い人が自然に使ったことに驚き、「おかげさまで」という言葉の温かさをあらためて感じました(私は最近意識して使うようにしています)。
このとき患者役をしていた研修医は、医者という自分の属性を抜け出して、患者のほうにグッと近づいていたのかもしれないと気づいたのはしばらく時間が経ってからのことでした。患者の立場に近づくことができたのだとしたら、そのことがこの先患者と接していくときの貴重な財産になり得ると思います。それは、視座の転換というよりは、つい「相手の身になってしまった」というようなことでしょう。「相手の身になる」という言い方は哲学の世界ではあまりよく言われないのですが、ケアをしていく上では「身を置いてみようとする」ことの意義はやはりあると思います。「つい相手の身になってしまう」というのは、不動の自己からの投影ではなく、生きることの根源的な部分での共鳴に「巻き込まれる」のでしょう。そのことは医師である自分の存在基盤を危うくすることでもあるのですが、だからこそこのような資質が医師であるうえでかけがえがないものだと思います。この温かく奥行きのある言葉を大切にして医者として育っていってほしいと思いました。医者は「おかげさまで」と人からは言われ続けているのに(ので?)、他の人への「おかげさまで」という心を忘れてしまいがちですから。
このような言葉を伝えることの方が、OSCEなどよりきっとずっと大切です。1つの学年で見ると、130人に1人が医学部に進学する時代です。「おかげさまで」と言える学生や「患者の気持ちがわかりたい」と思う学生の数もきっと増えているのだろうと思います。(2014.3)