講演にうかがったある病院で、その理念として〈Medicine should begin with the patient, continue with the patient, and end with the patient. 〉と書かれているのが目に留まりました。医学教育の基礎を築いたウィリアム・オスラーの言葉です。オスラーは1919年に亡くなっていますから、この言葉には100年以上の歴史があるのでしょうが、今も求められるべき理念です。もしかしたら、今の方が。
この国の未来も、地球の未来も、どうなるのか気がかりです。社会の変化に伴って医療も変わっていかざるを得ないでしょう。しばらくは高齢化が進むでしょうが、その波が過ぎた後、医師過剰にはならないのでしょうか。そうしたいろいろなことをあまり気にしていない雰囲気で、現在の社会や医療のありようがこの先も不変不動のものであるかのように、若い医師からも指導医の側からも医師としての人生設計(キャリアパスなんてシャレた言葉の方が好まれるようです)が語られることに、私は違和感に包まれます。本人たちは真剣に考えているのでしょうが、ハイデガーの「頽落」という言葉を思い出してしまいます。「頽落」って、漫然と、ボーッと生きているという意味ではありません。
だから、「そうした時代の先を見越して、それに対応できる医者になるように勉強すべきだ」とか「これからの医療ではコミュニケーションを学ぶことが大切だ」などと言いたいわけではありません。未来はいくら予測しても、たいてい外れるものです。不確かな未来予測に基づいて右顧左眄ばかりしていると、一生なにごとにも右顧左眄する人間になってしまいます。こんな時代だからこそ、この世界を歩み出した人たちがまず身につけるべきことは、いつの時代も変わることのない医の原理・医の心を求めることを措いて無いと思います。そのことは実は、どんな時代でも同じですし、この世界に先に身を置いてしまった(若くない)私たちでも同じです。地球の未来や医療の未来、そして自分の未来は、目の前の患者さんをしっかり見つめることからも見えてくるはずです。そのような視力をつけるのも、そのような目を曇らせるのも、研修しだいです。
オスラーは、100年前の言葉で、私たちにそのことを伝えようとしていました。100年生き続ける言葉に学ぶことは、この先4-50年の人生を選び取る指針になります。それは、オスラーから受け取ったバトンを100年後の人たちに手渡すことでもあります。
先日、少し自分自身にがっかりすることがあったのですが、ちょうどその時、書店で神谷美恵子さんの文章をまとめた新しい本に出会いました(「ケアへのまなざし」みすず書房2013)。神谷さんの文章に接するのは久しぶりのこと。本でも人でも、出会いとはこんなふうに時を得て生まれるものなのでしょう。
私が神谷さんの本にはじめて出会ったのは、もちろん(?)「生きがいについて」(みすず書房、1966)でした。
「人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。・・・ただ『無償に』存在しているひとも、大きな立場からみたら存在の理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。・・・・現に私たちも自分の存在意義の根拠を自分の内には見いだしえず、『他者』のなかにのみみいだしたものではなかったか。五体満足の私たちと病みおとろえた者との間に、どれだけのちがいがあるというのだろう。・・・・大きな眼からみれば、病んでいる者、一人前でない者もまたかけがえのない存在であるに違いない。」この言葉に私の医療観は支えられ続けてきました。神谷美恵子、島崎俊樹、加賀乙彦、中井久夫といった精神科医の紡いできた言葉も未来に開かれたものであり、50年後にも生きているでしょう(書かれてからもう50年近くが経っていますから100年生き続ける言葉になりますね)。 (2014.5)