レストランで、「明日から入院なので、しばらくお酒が飲めないんですよ。それで、今日はグラスワインを1杯だけ下さい」という客に、「しばらくお飲みになれないとのことですので、少しだけですが多めに・・・」とウェイターが応える場面を見ました。
「たいしたことないじゃないか。自分たちはもっと大きな心遣いをしている」と医療者は思いがちです。でも、大きな心遣いは、こんな「ささやかな」気遣いの積み重ねの上にしか生まれません。誰でもちょっと考えればできそうな気遣い、親しい友人や隣人になら誰でもがするであろう気遣い。ささやかな気遣いに心が少し和むことで、人は救われます。そのような人がそばに居てくれると、人は多少なりとも前に進めます。大きな心遣いは、前に進もうとする人のそばに居ることを通して生まれることですし、そばに居続けること自体が大きな心遣いです。
研修医の採用試験で医師を志した理由を尋ねると、ずいぶん多くの人が「人と接することが好きだから」と答えてくれます。「人と接することが好き」というのは、こうしたちょっとした気配りをすることが大好きで、そして、その時の相手の笑顔を見ることが嬉しくてたまらないということなのではないでしょうか。この嬉しさゆえに、逃げ出したくなるようなことも少なくないこの世界に踏みとどまっている人もいるでしょう。「今、自分がこの人にできる最高の『プレゼント』ってなんだろう」と立ち止まって心を傾けてくれる人にしか、病気の人は心の奥を語ろうとはしません。
BSL(臨床実習)が始まってから「実習に出てみて、年配の方と接する自分の態度が適切なものかどうかを確認したいと思って」秘書検定(それも、難しい準1級)を受けたという学生に出会いました。接遇についての本を書いたことがある身として(「患者さんとのふれあいハンドブック」。この本を読んだ親戚の看護師には「こんなに小うるさい医者とは絶対に一緒に働きたくない」と言われた)、このような方法で自分の態度を確認したいと思い立つ学生が居たことに驚き、こんな感性の人が医師を志していることにとても嬉しくなりました。「後生畏るべし」、いつの時代も希望は若い世代の中にあるのです。このような人はきっと「人と接することが好き」な医者になってくれると信じたい。「希望は問題の中にある」という言葉もこの学生から教えられました。鷲田清一さんなら、「課題」と言うのでしょう。「『課題』には答えはない。それに取り組むことに意味の大半がある。・・・死ぬまで私たちはそれを問いつづけるしかない。そしてそこにこそ、人としての〈わたし〉いうものの存在の意味があるといえる。」(『「自由」のすきま』角川学芸出版)
でも、振り返ってみて、このような感性を受け止める受け皿が医学教育の場にほとんどないと学生から指摘されている気がしました。喜んでばかりいる場合ではありません。(2014.5)