東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.169

話がずれてきていませんか

日下隼人    研修医の採用面接ではグループディスカッションをしてもらっていましたが、若い人たちは初対面であってもディスカッションすることが上手です。とは言え、表面的に仲良く話すことが上手という感じもして、「合コン世代のためなのかな」と年寄りは勘ぐったりしてしまいます。学生たちはどうしても「目立ってはまずい(変に目立つよりは無難に済ませたい)」と思いますし、試験では「和やかに話し合いができる資質を持っているか」が見られることになっていますから、努力して和気藹々と話そうとします。そのため、少し話が逸れだすとだんだん課題と違う方向にみんなで流れていき、そのところで「乗り」で話が弾んでしまうときもあります。ある年の試験で、そんなふうにどんどん課題から離れて話が進んでいくのを聞きながら「このままではつまらない結末になりそうだな」と私がゲンナリしていた時、「話が少しテーマとずれてきていませんか。もう一回最初に戻って問いを考えてみませんか」と、45分間のディスカッションで2回も軌道修正をしてくれた学生がいました。別の年には、他の人が一つの結論にまとまりつつある中で、「私はどうしても、この(反対の)考え方のほうが正しいと思う」と、柔らかい表現で最後まで頑張った学生もいます。こんなふうに知性というものを学べる「役得」を何度も経験しました。

   話が進んでいくうちに「テーマとずれてしまう」のは、学生たちに限りません。中年世代も似たようなものです。若い時から「表層的人間関係」の維持に馴染んできているのは私たちの世代も例外ではありません。それに、流行に乗ることや新しいことを言うことが進歩だと思いがちです。
   模擬患者が参加する医療面接演習が始まった時、市民が医学教育に参加することにより患者の想いに添うことの重要さを伝える医学教育が進むのではないかと、私は思いました。さらには、日本の医療を患者の視点から問い直す姿勢を学生たちが学んでくれるかもしれないとも期待しました。けれども、OSCEが共用試験として行われるようになって雰囲気は変わってきました(理由は他にもあるのかもしれませんが)。
   OSCEが始まりだしたころには、お手伝いをした多くの大学で 「模擬患者さんのご意見をうかがって」「模擬患者さんに教えていただいて」というような言葉を耳にしました。でも、このところ模擬患者を、医学教育者に「使用されるもの」と考える人が多くなってきたような気がします。
   「SPは、日本における医学教育を理解し、各医学部・医科大学の教育理念・教育方針に賛同し、患者のための医療を目指す医師を育てる使命感を持ってボランティアとして協力する」というような言葉も聞くようになりました。SPは医学教育者(と医学生)に「協力するボランティア」でしかなくなったのです(「ボランティアが良くない」と言っているわけではありません)。「学用患者」「ポリクリで、講堂で多くの学生たちの目に晒される患者」に通じる匂いを感じてしまいました。「市民参加」などという言葉はもう死語なのでしょうか。

   「SPを用いる」先生たちが、「SPのバラツキを減らす」ために「SPを指導する」ことを議論し、「リアリティがあった(なかった)」と評価し、「SPのモチベーションをあげよう」と心配してくれるようになってしまいました。
   「あなたのモチベーションを上げよう」という姿勢の人と出会うと、私ならモチベーションが下がります。
   SPが「バラついて」はいけないらしいのですが、このばらつきは教育者が吸収し解消するものだとは考えられないでしょうか。そうした方策についての提言は耳にしたことがありません。「人間なのだから、相手との関わりの中でのことなのだから、バラツキがあってあたりまえ、リアリティがなくてもあたりまえ」「バラツキがあっても、それが学生の不利にならないように教育側で対応しますから」「リアリティがないことを契機にして、学習を深めます」「SPさんはのびのびとやってください」と言える教育者はカッコよくて、学生はそこから学ぶことがあると思うのですが。
   模擬患者の質が問題にされ、学会でも議論されますが、模擬患者に手伝っていただく教員の質は問題にされません。模擬患者は教育者が使う材料となり、医療の内側にいる教育者の自己変革は語られません。(教育者=自分たちは問題なく正しいものと前提されているようです。)
  「SPは身体診察も」と、SPに「身体を差し出す」ことを求める人は前から居ますが、その根拠はずっと前から「面接に続いてSPの身体診察ができると、診察の流れが遮られずによかった」「リアリティがある」ということに尽きています。あと、「欧米では」という、タカアンドトシ(漫才コンビです、念のため)に突っ込まれそうな言葉がくっついてくることが多いようです。
   「たかが」模擬患者なのに、リアリティが大切なのでしょうか。そもそも、「リアリティがある」ということをアプリオリに「善いこと」「教育効果を上げること」として語ってしまって良いのでしょうか。医療面接で本当に伝えたいリアリティがあるとすれば、それは「穏やかに、さりげなく接する裏側で、自分の全能力を駆使して患者さんと必死の真剣勝負をしているのが面接だ」ということしかありえないと私は思います。私の不勉強のせいかもしれませんが、「そのことをどうしても伝えたい」という文献や言説に出会ったことがありません。学生が、「模擬患者ってほんものっぽ〜い」とか「白衣を着て、はじめて年寄りに触ったぞ。スゲ−」という感覚で「リアリティがあって良かった」と言っている可能性もあると思うのですが、そうではないということは担保されていません。そんな「リアリティ」を感じるとしたら、同時に大切なことを見失っているはずです。そのことに目配り・気配りする姿を見せなければ、教育ではありません。(このあたりのことはNo.5-9、No.42、No.27などにも書きました。あれからずいぶん時間が経ったのですが、相変わらず同じ議論しかされていないようです。) 模擬患者も(「教育的効果」という概念自体も)、より「お買い得な商品」として扱われる仕組みに私たちが取り込まれているようにも感じてしまいました(昔読んだボードリヤールを突然思い出した「消費社会の神話と構造」)。 SPを教育の協力者の位置にとどめるのではなく、私たちと一緒に学生を育てる仲間として、そして、そのことを通して一緒に(ここでは学生や研修医も入ります)成長する友人としておつきあいしていく。そこから、医学教育、そして医療そのものの枠組みを、一緒に少しずつ「ずらし変え」ていきたい。SPの人たちは、多かれ少なかれそのような思いを抱えてこの活動に参加しているのではないでしょうか。
   進歩は「テーマからずれない」ところにしか生まれないのですが、「ずれてきていませんか」と言われてもなお、そのことに気づかない人がいます。たぶん気づかない方がいろいろ都合がよいのでしょう。「初心忘れるべからず」という言葉があるのは、初心は忘れられる宿命にあるからなのですが。

   グループディスカッションで軌道修正してくれた学生に、そのあとの個人面接で「試験の場で、流れを変えるようなことを言うのは怖くなかったですか」と尋ねたところ、「怖かったです」と答えてくれて私はホッとしました。「ずれている」と声に出すには、知性だけではなく勇気と流れに抗するエネルギーが必要です。そんな学生が医師としての道を歩み出していることが、未来への希望をつないでくれています。でも、若い人から希望をもらった私は、若い人たちの未来への希望と力を提供できているでしょうか。(2014.6)

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