東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.17

これってファシズム・・・? No.4

日下隼人 「立派な死に方」「死を受容する」というような言葉から逃げ出したくなります。「死は怖い」「死を前にうろたえる」ことのほうが人間らしく、あたりまえの姿なのではないでしょうか。死から目をそらす生き方がどうして悪いのでしょうか・・・たいていの人はそうしています(メメント・モリということが意味がないとは全然思いませんが)。死について考えないまま生きてしまっても、死を前にして、うろたえても、取り乱しても、すべてを恨んでもよいではないですか。元来「弱い」人間なのですから、「弱い」ままで最後まで生きたいと私は思っています。人間としてあたりまえのことを見ないようにして、「落ち着いて死を受け容れる」カッコ良さ(?)を求める思想は、それだけで危険です。死を前に、静かに感謝しながら生きた人は、きっとそんなふうに「生きたかった」のです。それはそれで「すてき」。でも、そのことを「良い話」として語るべきではないと思います。「良い」は向かい側に「悪い」を作り、人の心を縛ります。医療者の目を曇らせます。「死」に際してさえ優等生であることを求められるはごめんです。  「死への準備教育」「死の医学」「死生学」といった言葉群もどうかと思います。教育という行為は傲慢さを避けて通れないのに、教育によって死ぬ準備や死の意味を語ることには何かそら恐ろしさを感じます。他の医学知識と並列的に死を教えるということは、かえって死を対象化し、希薄なものとしてしまいます。死すらも教えられるという傲慢さがそこにはあり、伝わるのは傲慢さの方なのだと思います。

「受容」という言葉には、あからさまな権力性が含まれている
(安藤泰至「病の知」の可能性、医学哲学・医学倫理23号 2005)
ただでさえ重荷にあえいでいる人生なのに、見知らぬ医者から「絶望」を背負わせられるなんてまっぴらです。現実逃避とか、臆病とか、そういった態度を蔑むのは間違っています。正直で何がいけないのでしょうか。(春日武彦「『治らない』時代の医療者心得帳」)

 「私たちは千年以上も狭い島国に生きていて、このような・・・・言いにくいたいせつな部分がおたがいの自由をおかさない仕方で伝わる流儀を作っています。・・・・竹内さんは、ご自分の病気について知っていたと信じています。自分を見舞う客とともに、明るい話題をたのしみ、しばらくの自由な言葉のやりとりの時間をもつ、そういうもてなしが・・・・最後の病床にありうるというところに、日本の伝統が生かされているように思います。」鶴見俊輔は、中国文学者の竹内好が癌の床にあったとき、見舞いに来た人も彼も癌のことには触れず、いつも楽しい会話を過ごしていたことについて、こう書いています。そうした付き合いだからといって、「最後の心構え」ができていないということはないでしょう。嘘をついたり、本音を漏らしたり、相手を信じたり疑ったり、演技をしたり葛藤しながら、親しい人とつきあっていくというのがふだんの人間関係なのですから、どんなときだってそれでよい。はっきりとした言葉を交わさないまま、わかりあっていくことも少なくないでしょう。病者が抱えている不安を黙って見つめながらそっとそばにいる人と、そんなふうにしている人を気遣いながら黙っている病者との付き合い。そうした見守りあいの中に生まれるほのぼのとした温かさは、明解な「がん告知」の蔓延とともに失われてしまいました。
「告知のあと迷い悩む過程で、言葉を失い、医師、看護婦にこび、周囲に明るい顔をみせるようになりました。死のふちに立ち、身を守る為に取った防衛の本能かもしれません。最善の治療、看護をしてほしい、やさしくしてほしい、と。」(朝日新聞・大阪版 1996年2月6日夕刊投書) 「良い子」であろうとして、そのためのコミュニケーションに、自分の思いを押し殺して総力をあげる患者さんの思いが、コミュニケーションを語る私たちに見えているでしょうか。

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