看護部長を副院長にする病院がだんだん増えてきました。が、日本の医療が変わるのは、看護師が病院長になるときではないでしょうか(法律的に認められていないことは知っていますが、だとしたら法律を変えることを考えればよいのです)。病院のトップがケアを語るとき、もしかしたら日本の医療は変わりだすかもしれません。それまで日本の医療は変わらないような気がします。
でも、日本の医療政策は逆の方向に進んでいるようです。「医療経済が厳しい」中で(ということがほんとうに自明のことなのかについて、十分議論されているかどうか疑問もありますが)国の政策の下で病院が経営的に生き延びるためには、患者さんから見れば「冷たい」医療を進めていくしかなくなりつつあります。
とは言え、制度がどのようなものであれ、勝負の場は現場です。幸か不幸か、政策がどのようなものであれ、病院のトップの姿勢がどうであれ、現場のスタッフはいつもケアをしています。勤務先を変えることが少なくない医療職の人は病院への帰属意識をあまり持たないものですが、目の前の患者さんへの帰属意識はなかなか捨てられません。目の前の困っている人を助けたいという思いが職業選択の動機の少なくとも一部であるのですから、その思いは抜けきれず、困っている人がいればケアを行わずにはいられません。そうである限り、ケアの心は病む人を前にする現場で生き続けていき、それこそが医療を最終的な崩壊から守っているのだと思います。
もともと患者さんたちは「病院は温かいところであってほしい」と思っていますが、「それほど温かいところではない」ということも知っています。医者に「優しく接してほしい」と思っていますが、「そんなことは滅多にない」ということも知っています。だからこそ、病院の「冷たさ」に直面しても、目の前の医療者の温かい一言で患者さんは支えられていると感じ、前に進めます。これまでも、こうした患者さんと個々の医療者との間に生まれた信頼が医療を成り立たせてきていたのです。
そのような現場での対応は「制度の矛盾を糊塗するだけだ」という考えもあると思いますが、現場での医療者の思いを感じ取ってくれる患者さんはきっと少なくないと信じたい。そう信じての現場での「抵抗」=志を見失わずに現場で患者さんとつきあうことは、流れに抗して医療を患者さんのものに留めるための「蟻の一穴」になりうると思います。それは、病院への「ご奉公」でないことはもちろんですが、患者さんのためである以上に、医療者として生きていく自分の未来のための(同時に「未来の自分」のための)行為です。
それでも管理者に行動の余地がないわけではありません。政策に乗って生き延びるために「冷たい」ことを言うしかなくとも、その中に患者さんが一縷の光明を感じられるメッセージを込め、職員に「医の心」を見失わないようなメッセージを伝える姿勢がありうると思います。このような時にこそ、管理者の志と勇気が問われます。講演で多くの病院にうかがってそのような院長・副院長にお目にかかると、嬉しくなります。
医療の世界に拡がりつつある「虚無」からの回復は、団塊の世代と言われる私たちが生きている間は難しいかもしれませんが、その後(30年後くらい?もっと先?)に「虚無」から回復できる途を見失わないように道標を立てておくことは、私たちのなすべき仕事です。(2014.08)