東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.18

コミュニケーションは時を超えて

日下隼人 33年前に白血病で亡くなったH君のお母さんからひさしぶりに手紙が届きました。ご自分が手術不能の癌になったことで、H君のおもちゃを捨てているうちに手紙を書きたくなったとのこと。今はもう「引退」しているのですが、以前は小児癌のお子さんの治療をしていました。そのころ、お子さんを亡くされてから3年くらいの間は、「話したい」と言って私を訪ねてくださるお母さんが何人かおられました。3年をすぎるころからお出でにならなくなることが多く、「喪の作業」には少なくとも3年はかかるように感じていました。でも、実際には3年にとどまるはずもありません。
お見舞いにうかがうとお元気そうでしたが、H君が亡くなってからずっと月命日にお経をあげてもらっていたとのこと。そして、おもちゃはずっと捨てられなかったとのことでした。
折にふれて子供のことが思い出されるたびに、入院していたときの医療者の言葉が一緒によみがえるに違いありません。そのつど、入院していたときの「冷たかった言葉」「つらかった言葉」「悔しかった言葉」が、一緒に思い出されていたはずです。患者さんとのコミュニケーションは、医療者の記憶からは飛んでしまっても、残された人の心のなかにずっと生き続けていきます。コミュニケーションとは今だけのことでなく、相手の人のずっと遠い未来に向かって言葉を送る=「贈る」ことなのだとも思います。
 H君を受け持ったとき、私はまだ医師として2年目でした。若くて胡散臭い医者が主治医になるということで、ずいぶんつらい思いをされたと思います。「三月の終わりごろ、この子の残された生命を先生に託したいと考えた日々、あのころが発病以来一番つらかった日々ではないかと思います。」と、H君が亡くなった後にいただいたお手紙にありました。
今の病院に来ても小児癌の子供たちの治療にあたりましたが、東京には大学病院も小児病院もいっぱいあるのに、ただの市中病院で、「どこの馬の骨ともわからない」医師に子供を託すことを決断されたことに、私はずっと「もうしわけない」と思いつづけていました。その患者さんのつらい思いを見失うことだけはしないようにしたいと思ってきたことが、私の今に繋がっているような気がします。

 病気の人がある病院に入院するのは、偶然の要素の方が多い。たまたま近くにあったから、なんとなく大きな病院だったから、紹介されたから、知り合いがいたから・・・・・。はじめからどんな病気かわかっていたら、もっと別の選択があったかもしれない。どの医者に受け持たれるかということは、ほとんどの場合自分では選べない。病気の説明を受けてそこで治療を受けていくということは、一つの選択というよりは偶然の積み重ねを受け入れて身を委ねるということである。そして「よろしくお願いします」と言ったとたん、かろうじて可能性としては残っていた他のすべての選択肢を諦めることになる。病気になったら、いつかはどこかでそれ以外の途を断念して、「お願いします」と言うしかない。そこに、さまざまなとまどいやためらいがあり、決断(=諦め)が流れているに違いない。このためらいの波は、その後でも何度も押し寄せてくる。「この選択でよかったのだろうか」という問いは何度も大きなうねりとなって繰り返し押し寄せ、病気の人は翻弄される。
 どんなに断念はしても、そちらの道はどうだったのかという思いは一生消えない。無限のとまどいとためらい、諦めに伴う悔しさが私たちの付き合いの底を流れている。朝、病室に入って行くと笑顔で挨拶してくれる家族がそこに留まるまでには、「逡巡と断念」の夜がまた一夜過ぎており、そうした思いが薄紙を重ねるように積み重ねられている。その断念と逡巡の末にかろうじてたどりついた「この病院に、この医療者に、賭けてみよう」という思いの上に、私たちのコミュニケーションがかろうじて成り立っていることを、私たちは気がつかない。

▲コミュニケーションのススメ目次へ戻る        ▲このページのトップへ戻る

 

プライバシーポリシー | サイトマップ | お問い合わせ |  Copyright©2007 東京SP研究会 All rights reserved.