急性の循環器疾患で、もう回復困難であることをご家族に説明する場に同席した研修医。「(当の患者さんが)きっといまこの部屋のどこかから見てるだろうね」と言って涙を流しながら微笑んで同意書にサインする姿に強い絆を感じて圧倒され、「先生方には十分力を尽くして頂きました」とお礼を述べられたときに涙を流してしまったとのこと。
このできごとはきっとご家族自身を支え、医療者を支えます。
家族の歴史にはさまざまな局面があるでしょうが、その一員の臨終の場面はそれまでの人々の関わりの一つの帰結です。人間どうしの絆の強さは危機的な場面などで、それまでの関わりの「結果」としてはじめて確認されます。たとえ強い絆が確認できても、絆の強度は固定したものではありませんから、「その後」で揺らぎが来る日もあるでしょう。その揺らぎを収めるのも絆でしょうが、「そのときの」医師や看護師の「涙」が支えになることがあるかもしれません。私は、医者になったころから、「医療者は患者さんの前で泣いてはいけない」という言葉が嫌いです。最後の場面、とてもつらい場面で、涙さえみせてくれない医療者に自分(家族)の人生の大切な時を委ねてきていたのかと思えば、なにか悔しい。「冷静さ」が信頼の源になるという側面は確かにありますが、「静」だけがどこかへ飛んで行ってしまうことの方が多いのではないでしょうか。
「『親が取り乱すと子どもは不安になるから、常に明るく』って言われたんです。でも子どもが苦しんでいるのを見て我慢できなくなって『かわいそうでママ我慢できない、ごめんね』って言って泣いたら娘が『ママが泣いてくれてうれしい』って言ってくれたんです」と教えてくれた母親がいたことを思い出しました。
患者さんが亡くなった後で、診療の疑義を尋ねてくる家族がおられます。それは、しばしば「クレーム」と受け止められがちなのですが、多くはグリーフワークとか「喪の仕事」と言われるもののように感じられます。親しい人が亡くなるまでの重い時間、無くなった後の空虚な時間、その「やりきれなさ」(「不満」ではないと思います)を誰かに言わずにはいられない。言っても、思いは語りきれず、何を答えてもらっても空虚さは埋まらないことが分かっていても、言うしかないという事態。最後の時や「その後」の説明や雰囲気は、この空虚さを和らげも深めもします。「十分力を尽くした」人の涙は、その空虚さをいささかなりとも和らげると思いたい。言葉は、人を傷つけてしまう力はとても強いわりに、支える力は余り強くないのですから。
遺された人々の思い出の中に、死にゆく人は生き続けます。今という時間が、その後の時間の中で歯軋りするような思い出にならないように、今の時間を大切にしていきたい。朝の診察、熱が出たときの処置、検査の時に交わす言葉、病室でのちょっとした会話、病気の説明。そんなことのすべてが、どこかで“その日”と“その後”につながります。一つ一つの場面で自分の言うこと、していることが“その日”“その後”のどこかにぽとんと落ち、そこで病者や家族を支えることもあるし、耐え難いものにすることもある。いやな思い出は一つでも少なく、そしてほっとする思い出は一つでも多くなるように、気を配りたい(こちらの「思い込み」に過ぎなくとも)。私たちの患者さんとの関わりは、その患者さんや家族の遠い未来を支えられるように、遠くを見ながら「現在」を丁寧に紡いでいくことです。今という時間はこの瞬間であるけれども、これまでの長い時間とはるかな先の時間に向かって広がっている時間でもあるのです。
患者さんとの関わりに限らず、私たちの現在の生きる姿は、「未来の自分」から「現在の自分」がどう見えるかという問いへの答えです。自分が死ぬ時に、今自分がしていることはどのように自分の中で評価され位置づけられるのだろう。この世に生を受けた身として、今自分がしているような関わりで「良かった」と、最後の瞬間に心から思えるだろうか。そして、その最後の瞬間は明日来るかもしれないと覚悟して、自分に問いかけているだろうか。(と言うと、ハイデガーに近くなってしまうでしょうか。)
涙する経験をしたことだけで、初期研修の目標は十分達成されていると私は思います。早く診断できる技術を身につけること、薬が適切に使えること、救急処置が身に付くこと、学会発表に挑戦することといった初期臨床研修の眼目とされがちなことよりも、こうした経験のほうがずっと重要です。(もちろん、こうしたことも大切です。私たちの若い時よりも今はずっと充実した指導がされていて、若い人たちは恵まれています。)。医師として歩き始めたとき、誰もがこのような経験をします。いつの間にか同じような場面を見てもこれほどには「圧倒」されなくなってしまうのも事実ですが、それでも一つ一つの体験がその後の医師としての人生を支えます。指導医が関わらなくとも、研修医はこの記憶をなくしてしまうことはないでしょう。言語化することができれば(そのような機会があれば)大きな意味があると思いますが、医師にとっても言語化するためには時間が必要ですし、言語化することはそのときの「思い」をずらしてしまうことでもあります。本当の思いは言葉にならず、言葉にした時本当の思いが薄れていきます。言語化することが自傷行為になってしまうことさえあります。
このような思いを経験として埋め込むためには、茫然と立ち尽くす時間、そして思いをincubateする時間が必要です。「こうするべきだ」という正解があるわけではないけれども、そのつど、迷い、踏み留まらないことは「不適切」と言っても良いと思います。そんな埋め込みは「不器用な」人のほうができるのかもしれません。指導医に求められることは、性急な言語化を促したりせずに、「立ち尽くす」時間を保障することであり、その医師の思いや迷いを損なわないことです。そのことは、指導医自身の原体験を振り返ることにもなるはずです。
連日いろいろな検査が施行されてきた患者さんから、朝の回診で「もう今日の検査は受けたくない」と言われて、「どう言ったらいいのかわからなかったことが、残念だった」と言う研修医に対して、上級医が「そういった感覚がとてもすばらしいと思う。さらりと、”もう少しだからがんばりましょう”とか言えてしまう人は器用でスマートだけども、”どう言ったら分からなくなった、残念だ”というのはとても素敵だ」とコメントをしたという話を読みました。それを聞いた指導医は「こんなようなやり取りができるうちの若者もなかなか捨てたもんではない」とひそかに思ったそうです。(名古屋医療センター・脇坂達郎先生のブログ「オーケストラの舞台裏」。勝手に要約してしまいました。)「 打てば響く」だけの研修医を育てるのでは寂しいと感じる指導医がここに居います。
いつの時代も、若者は「なかなか捨てたものではない」のです(むしろ「後世畏るべし」なのでしょうね)。(2014.10)