東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.184

土下座

日下隼人   けっこう有名な文章らしいのですが、私はもう50年近く昔、受験勉強でこの文章に出会いました(受験した大学の既出問題でした)。

ある男が祖父の葬式に行ったときの話です。
式が終りに近づいた時、この男は父親と二人で墓地の入ロへ出ました。
父親がしゃがんだので同じく真似をしてしゃがんだのです。
   やがて式がすんで、会葬者がぞろぞろと帰って行きます。狭い田舎道ですから、会葬者の足がすぐ眼の前を通って行くのです。靴をはいた足や長い裾と足袋で隠された足などは極めて少数で、多くは銅色にやけた農業労働者の足でした。彼はうなだれたままその足に会釈しました。せいぜい見るのは腰から下ですが、それだけ見ていてもその足の持主がどんな顔をしてどんなお辞儀をして彼の前を通って行くかが解るのです。ある人はいかにも恐縮したようなそぶりをしました。ある人は涙ぐむように見えました。彼はこの瞬間に、じじいの霊を中に置いてこれらの人々の心と思いがけぬ密接な交通をしているのを感じました。実際、彼も涙する心持ちで、じじいを葬ってくれた人々に、――というよりは、その人々の足に、心から感謝の意を表わしていました。そうしてこの人々の前に土下座していることが、いかにも当然な、似つかわしいことのように思えました。    これは彼にとって実に思いがけぬことでした。彼はこれらの人々の前に謙遜になろうなどと考えたことはなかったのです。ただ慢然と風習に従って土下座したに過ぎぬのです。しかるに自分の身をこういう形に置いたということで、自分にも思いがけぬような謙遜な気持ちになれたのです。彼はこの時、銅色の足と自分との闘係が、やっと正しい位置に戻されたという気がしました。そうして正当な心の交通が、やっとここで可能になったという気がしました。それと共に現在の社会組織や教育などというものが、知らず知らずの間にどれだけ人と人との間を距てているかということにも気づきました。心情さえ謙遜になっていれば、形は必ずしも問うに及ばぬと考えていた彼は、ここで形の意味をしみじみと感じました。
                         (中略)
   彼は翌日また父親と共に、自分の村だけは家毎に礼に廻りました。彼は銅色の足に礼をしたと同じ心持ちで、黒くすすけた農家の土間や農事の手伝いで日にやけた善良な農家の主婦たちに礼をしました。彼が親しみを感ずることができなかったのは、こういう村でもすでに見出すことのできる曖昧宿で、夜の仕事のために昼寝をしている二、三のだらしない女から、都会の文明の片鱗を見せたような無感動な眼を向けられた時だけでした。が、この一、二の例外が、彼には妙にひどくこたえました。彼はその時、昨日から続いた自分の心持ちに、少しひびの入ったことを感じたのです。せっかくのぼった高みから、また引下されたような気持ちがしたのです。
   彼がもしこの土下座の経験を彼の生活全体に押しひろめる事ができたら、彼は新しい生活に進出することができるでしょう。彼はその問題を絶えず心で暖めています。あるいは何時か孵る時があるかもしれません。しかしあの時入ったひびはそのままになっています。それは偶然に入ったひびではなく、やはり彼自身の心にある必然のひびでした。このひびの繕える時が来なくては、おそらく彼の卵は孵らないでしょう。(和辻哲郎 「土下座」)

    不思議にこの文章は受験生の時からずっと心に残っていたのですが、医療面接演習のお手伝いをするようになってみると、まるでそのために私の記憶から逃れずにいたような気がします。受験勉強が無意味だなどとは、私は口が裂けても言えません。182で書いた型と心のことを考える時、私はいつもこの文章から考えてきたような気がします。

    10年以上前の研修医オリエンテーションでの医療面接演習で、ずっと下を向いて患者役をしていた研修医が、その振り返りで「医師(役の研修医)がずっと自分の方を向いて、一生懸命話してくれたのがうれしかった」と言いました。下ばかり向いていたのに、「声と雰囲気でちゃんとわかります」と。
    医者と会う時、患者さんは心の中で土下座しつづけています。患者さんの心はずっと下を向き続けているのです。だからこそ、医療者の心が自分のほうに向いているかいないかがわかってしまいます。同時に、ずっと下を向いている間に、「患者として」の心が出来上がってきます。
    医者も、身を低くすることによってしか学べないことがあると思います。身を低くすることで「自分にも思いがけぬような謙遜な気持ちに」なれるのではないでしょうか。「ひび」のことを含めて(踏まえて)、そのことがコミュニケーション教育で伝えられているでしょうか。(2014.11)


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