今年、ある病院の研修医たちと、武蔵野のオリエンテーションでしているような看護についてのグループディスカッションをする機会がありました。まず「看護について考えていること」を一人ずつ話してもらいました。研修が始まって2ヶ月が過ぎているので、オリエンテーションとは少し感じが違います。一人の研修医が「救急の看護師さんが『自分は、救急患者の処置では絶対に医者には負けない』というのを聞いて、すごいと思った」と話してくれました。同席していた看護副部長さんがのけぞりかかったのは見なかったことにして、「なるほど。それじゃ、看護師のしている仕事で、医師として看護師に絶対に負けたくないと思うことが何かありますか」と尋ねると、「自分も患者の診療では誰にも負けないようになりたい」とのことでした。
看護の世界は、医師には見えていない世界です。見えないからこそ、看護師からの患者情報は、看護師が望むようには伝わりません。
「一人の人間の人生のある時間を受け止めるという重い仕事は、しばしば『汚い仕事』を通してしか可能になりません。身体の世話や汚物の処理をすることを通してしか生まれないケアがあります。体を拭いたり『下の世話』をしている時に患者の思いがポロリとこぼれ出し、そこから突然世界が開け、その時はじめて付き合いが生まれるということがあります」とNo.109でも書きました(少し加筆しました)。
下の世話、更衣、歩行介助、食事介助、清拭、痛いところをさすってもらう。そのとき、病者は、ケアしてもらう手の温かさを通してありがたさを感じ、同時に恥ずかしさ・悔しさ・ふがいなさ・・・といった複雑な思いに捉われます。このはざまで、ふと(やっと)漏れ出てくる言葉・表情・態度があります。このはざまでしか出てこないとも言えます。だから、出て来る言葉も表情も態度も、触れる手によって違ってきます。ケアする人ごとに患者の声が違って聞こえるのは、ケアする人の「構え」の違いにもよるという面もありますが、触れる手、語る声、一瞬の表情といったものがケアする人に応じて異なるからなのだと思います。
ケアする人は自らの五感を通して病者の思いを感じとり、ケアする人の思いがその手・声・表情に滲み出て病者に伝わります。その過程で、病者もケアする人も自らの思いの蠢きを感じます。これも「身心一如」と言えるかもしれません(普通言われていることとは違うと思いますが)。こうした過程を「お互いの存在に触れる」と言う人もいます(結果として、そのように言うことはできる事態が生まれると思いますが、こういう言葉を「目標」として掲げるとかえってケアの敷居を高くしてしまうかもしれません)。このとき、「ケアする人」=医療者、「ケアされる人」=病者という関係ではなく、相互にケアしあう関係が否応なく生まれます。
自分が相手の存在を感じたとき、様々な思いが交錯する中で、瞬時にどのような言葉・声・表情を選び、そしてどのような行動を選ぶかを決断しなければなりません。そのような応答は、reflection in actionと言われます。その瞬間にケアしているのは、たとえば「下の世話」でありながら相手の全人格・全人生であり、同時に自分の全人格・全人生なのです。その決断は、自分の人生への姿勢から生み出されます。だからreflection(省察)は、「哲学」抜きにはあり得ません。この哲学は難しい言葉が羅列するアレではなく、ふだんのくらしの中で、自分なりに人生をどんなふうに考えているか、医療をどんなふうに考えているかということ。つまり、日常語で語られる自分の思い=「暮らしの哲学」です。reflectionについての教育は、自分の人生を深く考える姿勢についての教育となるはずです。
「看護の視座」「看護者に見えているもの」について教えられている医学部があるのかもしれませんが、少なくともこれまで私の出会った研修医たちはわかっていないようでした。「処置では医者に負けない」という看護師にもそのことは見えていないのでしょうから、看護教育でも伝えることは難しいのかもしれません。看護師自身、気づかないまま患者という存在に触れ、ケアし合っていることのほうがずっと多いのかもしれない。気づかない時にしかできないこともあるのかもしれないし、気づかないまま通り過ぎてしまっても良いのかもしれない。「気づき、言語化できなければ経験として身につかない」と言われるかもしれませんが、人間の経験はもっと「逞しい」ものだと思います。とはいえ、「医者に負けたくても、負けられない」関わりをしていることを伝え合うには、言語化することが必要です(言語化の限界を自覚することは欠かせないのですが)。言語化することは、「なんだか自分の仕事が楽しくない」「なにをしているのかわからなくなった」「楽しくて仕方がないけれど、(患者さんを置いてきぼりにして)自分だけが楽しんでいるのではないか」という不安からの出口につながってもいます。
通常の仕事をしている限り、医者は「はざまから漏れ出す言葉」を聞くことはできません。医者も診察や処置を行う時に同じような状況に接することが少なくないのですが、そのとき患者さんは看護師に言うようなことを医者に対しては言わないでしょう。聞くことができないから医者は学ぶことができないのですが、そこから短絡的に「学べばよい」「学ぶ方が良い」と思ってしまうとすれば、それは教育の錯覚です。素地=「哲学」の無いところで学ぶことは逆効果になりかねません。教育者に問われるのは素地を耕しているかということのほうです。
聞くことができないからこそ、医者の仕事ができるという側面もあります。聞くことができないからこそ、医者を続けられるということもあるかもしれません。患者の生活や心情にあまり(全然?)気を配らないからこそ見えることもあるでしょうし、かえって的確な治療(限定的な意味で)ができるという面もあるはずです。医者の「視野の狭さ」「冷静さ」「冷たさ」のポジティブな側面にも目配りをするほうが良いと私は思います。医者には、まずは医学知識を身につけ技術を磨くことが求められます(現場でおきている「事件」のほとんどは、このレベルでの不足です)。「患者の生活を見よう」とする医者が、かえっておかしなことを言ってしまうことも少なくありません。それは、医者自身の「暮らし」の底が浅いからです(もちろん私もそうです)。
私は「医者は患者の生活を見なくて良い」と言っているわけではありません。けれども、「生活を見ない医者はだめだ」というようには言いたくない。だからこそ、ほんの少しの「温かさ」を添えることが医者には欠かせない。ほんのひと言が添えられるだけで、ほんのひと手間かけてもらえるだけで、微笑みを返してもらうだけで、人は支えられます。患者さんは過大な期待をしているわけではないのです。コミュニケーションに熟達することを教育するよりは、あと一歩の気配りを伝える教育ができないでしょうか。そのような気配りはこれまでの人生で多少なりとも身についているのですから、そして医療の場にはそれを削ぎ落とす力も働き続けているのですから、教育の仕事です。
「看護師に負けるな」と言う「元気」も私にはありません。でも、自分が担当している患者の人生について、自分には全然見えていない「深い」ものが見えている(見えてしまった)人が、自分のすぐそばに居ることだけは若い医師たちに知っていてほしいし、忘れないでほしいと思います。多くの医学部・医科大学には看護学部や看護学科が設けられていて、学生時代から交流のある時代です。「医師には及びもつかない」ことが看護の世界で行われているということ感じている医師が増えてきていると良いのですが。 (2014.11)