東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.186

言葉に躓く

日下隼人    今年1月に発生した研究不正事件は、1年がかりのことになってしまいました。初めの記者会見を見て「これはきっとどこかで異議がとなえられ、否定的な報道が繰り広げられるだろうに、こんな発表の仕方をして大丈夫かな」と思ったのですが、事態はそんな単純な予想を超えてしまいました。問題の在り処を確認したくて、私はいろいろな人のブログやツイッターをたくさん覗いてしまいました。論文が捏造であることを証明しようとする人と捏造ではないと言う人の間で議論が戦わされるのですから仕方ないことなのですが(それに捏造ではないという人は、論理ではなく感覚や陰謀論で言っているのでなおさらです)、いくつかのブログやツイッターでは「2ちゃんねる」のようなあまり「上品」でない言葉が飛び交っていました。140字という制約の中で書かれるツイッターの性質もあるのでしょうが、これまでいくつかの文章を通して知っていた人が、断定的な物言いをしたり、相手をさげすむような言葉を使ったり、「はい、論破」(自分の勝ち)など議論を打ち切ったりするのを見て私は戸惑いました。「はい、論破」はなかなか微妙で、それはツイッターの世界では市民権を得た定型句のようですし、私から見ても確かに「論破」されているのですが、それでもこのような物言いに私は馴染めませんでした。
   「あなたの言うことは確かにそういう面があるかもしれないけれど、それでもちょっと違うかも」「あなたの思いは分からないではないけれど、自分にはやっぱりそうは考えられない」「このような根拠が重要だと自分は思うのだけれど」というような会話でなければ、「話し合い」にはならないでしょう。自分が批判されると、反論を書くか、相手を非難してしまう人が多いということもあらためて知りました。ツイッターだから仕方ないというのであれば、そんなにしてまでツイッターをしないほうがよいのではと思うのは、私が古い人間だからなのでしょうか。
   でも、罵声や攻撃的な言葉は、必ずその言葉を言う人の価値を貶めます。多くの人が見るものにこのような言葉を書けてしまうことに、あるいはこのような言葉を使うことが適切な自己主張だと考えているらしいことに、私は躓き、その人がこれまで語ってきたことへの評価が自分の中で下がってしまい、その人の言説を素直に読めなくなってしまいした。それは間違った姿勢であると思います。人間は誰でも他人のことを口汚く悪しざまに言いたくなるような心性を持っているのですから、そのような面をさらけ出す人のほうが正直なのだとも思います。文章は、本人の日々の言葉遣いや私生活とは関係なくそれ自体の内容で評価されるべきだとも思います。でも、何かを語り何かを書く時、そういう聞き方・読み方をしてしまう人が必ずいるのだということを私は覚悟しておきたい。

   患者と医療者の言葉のやりとりも、これに近いことがあるのではないでしょうか。「正しい」説明が跳ね返される時、話し方を含めて自分の態度・雰囲気や外見のような別の要因が働いているかもしれないと振り返ることは、私たちは得意ではありません。
    それに、言葉が跳ね返されるような時、その言葉は「頭で編み上げられた言葉」であって、「心から絞り出された言葉」ではないことが多いようです。前者は「脳で考えられたことが口から出てくる、首から上の言葉」、後者は「これまでの人生で身をもって考えたことを後ろ盾に、全身で語られる言葉」ということもできるでしょう(絶叫するとか、身体を震わせてとか、真っ赤になってとか、こぶしをふりあげて、ということではありません)。自分の言っていることが正しいとは言い切れないことも承知しているが、「どうしてもこれだけは分かってほしい(分かってもらえなくとも、その責めを聞き手に負わせるつもりはない)」「どうしても、これだけは伝えたい」という思いが、心から言葉を絞り出します。だから、その言葉は言いよどまれながらしか語られません。絞り出される言葉は、罵声や非難とはつながりようがありません。「これだけは分かってほしい」「これだけは伝えたい」という思いは、自分が正しいという姿勢とは相容れないのではないでしょうか。「どうしても」という思いの感じられない話は、聞く人の心には滲みこみません。逆に、「心から絞り出された言葉」を無碍に跳ね返すことは簡単ではありません。

    医師が病気について説明する時に、「病気の話しかしない」ということでも良いのです(患者さんの質問については、病気以外のことにも答えなければならないのは当然のことです)。患者さんの話をまず聴いて、その上で「どうしてもわかっほしい」ことについての医学的な説明を、時間をかけてシロウトにも分かるように丁寧に、病気に悩む人が聞き取れるように配慮して話す。そのように話すときにしか生まれない「言葉の表情」があります。医師の言葉の表情に温かさを感じるだけで、言葉がほとんど聞き取れなくとも人は前を向けます。言葉の意味の分からない外国の音楽を聞いても、音楽の表情で私たちは何かを感じますし、何か自分に向けられているメッセージを聞いてしまうのと同じです。そのような医師がそばに居てくれるだけで、その「言葉の表情」に包み込まれるだけで、病で揺らいだ態勢を立て直すきっかけが得られますし、そうすれば後は自分で歩けることの方が多い。それでも、一人で歩くことがきつくなって誰かに頼りたくなった時、求めるのはあの「言葉の表情」の持ち主です。でも、「頼られたら、必死になって、全身全霊で支えなければならなくなる」などと考える必要はありません (そんなことはもともと無理なことですし、そんなふうに考えてしまうと始めから丁寧に付き合うことを避けるしかなくなります)。言葉はむしろ控え目にして、少し「立ち止まり」しばらく「そばに居る」だけで患者さんは多少なりとも支えられます。ただ、自分がそのような存在であることを知っていなければ、患者さんとのコミュニケーションの扉は開かないでしょう。(患者さんの看護師への期待値は医師へのそれよりも高く、看護は感情労働としての側面が強くなりますので、これだけではうまく行かないでしょう、きっと。) (12月のNo.187に続きます)。(2014.11)

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