今年は、講演に招いていただくことが今までになく多い年でした。定年を過ぎた身としては、自分の思いを話させていただける機会があることはありがたいことなのですが、そこには落とし穴もあります。
何度も同じことを話しているうちに、それが「不動の真理」のように自ら信じ込むようになるのは人の常なので、自分の考えを問い直しにくくなります。
講演が終わると「お礼」を言っていただけます。後日お送りいただいた参加者の感想でも、お褒めの言葉をいただきます。が、もしかしたら好意的な評価だけをお知らせいただいているのかもしれません。それに感想は、主催者への(講演者にではなく)気遣いもあって良いことを中心に書くものです。まして、年寄りに厳しいことは言ってくれません。「あそこが良くなかったね」「あれは違うんじゃないですか」とは、相当親しい人でも言ってくれません(先日、そのような貴重な経験をしました)。せっかく言ってもらっても、言われたほうは「耳の痛い」言葉は聞き流すか、都合よく意味をずらして聞きがちです(「自分が正しい」という信念に固執してしまいがちです)。そういうことが重なると、ますます自分の言っていることも話し方も「正しい」と思い込むことになりがちです。「お礼とお褒めのことばをいただく」機会が増えれば増えるほど、進歩は止まり、傲慢度が増しそうです。「地獄への途には善意が敷き詰められている」という諺は、このような時にも当てはまるのかもしれません。
いろいろなツイッターやブログに対するコメントでも、筆者に対する同意・賛意・賞賛の書き込みのほうが多いようです。批判的な人は、「放置」していることのほうが多いのでしょう。批判するコメントも、丁寧に条理をつくして書く人は少ないので(書くだけのスペースがないので)、その批判を簡単な反論で「論破」した気になれますし、無視することもできます。言葉遣いは、お互いに粗雑なものになりがちですが、そのことをあまり羞じなくて済む世界のようです。
講演でも、たくさんの人が頷きながら聞いて下さいます。人が頷くのには「話は聞いているよ」も、「言っていることは分かった」も「賛同」も、「そうそうお前は正しい」という上からの承認もあるのですが、話す方は頷きを全部「賛同」と勘違いしてしまいがちです(そう勘違いしている方が話しやすいし)。
同意・賛意・賞賛のコメントばかり見聞きしていると、頷きをみんな「賛同」だと勘違いしていると、だんだん自分の目の位置は高くなるばかりです。「自分は間違っているところがあるはずだ」という姿勢のないreflection(省察)は本質的には現状肯定になるしかありません。好意的評価には(感謝しつつも)その言葉におごらず、否定的評価から謙虚に学ぶと言えばそれまでですが、「言うは易く・・・」です。
患者さんから医師への好意的な言葉も同じです。好意的な言葉(お世辞や患者の自己防衛のことも少なくないのに)は耳に入りますが、自分への非難は不当だと思いますし、不満から黙って自分のもとから去って行った患者さんのことは気にもとまりません。患者さんが良くなるという現実的な成果に好意的な言葉が加わると、「人のために働いている」という満足感が得られますが、ある部分の進歩は止まります。自分のしている医療へのreflectionも容易ではありません。
医者になってからこれまで、なんどか患者さんのことについて「甘やかすとつけ上がる」という言葉を耳にしたことがあります。人間は誰でもそうかもしれませんし、病気の辛さはなおさら人をそのようにしてしまいます。でも、私たちのほうがはるかに患者さんから甘やかされていること、その結果、自分がつけ上がって(思い上がって)しまっていることには、気づきにくいものです。(「日本人にとって『甘え』はあらゆるポジティブな関係の基盤である」という指摘もあります。岸田秀「幻想の未来」河出書房新社)
講演で伺ったある病院の看護部長さんから「医師は、看護師がどんなに気を遣って声をかけているか。どのタイミングで、どんな言い方をすればよいか、そして冗談の一言にまでとても気を遣って話しているということに全く気が付いていない、ということをもっと話して下さい」と言われてしまいました。医療現場で、患者さんも含めて医者以外の人はみんな、このように医者に気をつかって=甘やかしてくれているのです。つらい人は誰か「甘えられる」人がそばにいることで支えられますが、強い立場の人が「甘えられる」ことはその(強い)人を駄目にします。この落とし穴は、落ちるほうが楽で楽しいものなので、無くならないのです。
それにしても、招いて下さったのは患者安全活動に携わっておられる看護師の方が多く、どの病院でも明るく生き生きと医療の課題に立ち向かっておられることに未来への希望を感じました。 (2014.12)