「別に先生を責めるつもりなんかない。ただ何かひとこと、そう、一緒にゴンを看ていこうねって言ってくれたら・・・・。それとも、こちらの気持ちに寄り添ってもらいたいなんて思う方が図々しいのかな。」(影山直美「柴犬ゴンの病気やっつけ日記」KKベストセラーズ) かかりつけの獣医の診断に納得ができず、別の病院を受診したところ癌の診断がついて、そこでの治療が一段落した後のことです。もとの獣医のところを再度訪れた筆者に、その獣医は「大胆なことをしましたね」と笑いながら言ったそうです。でも、こうした時、最初の医師が率直に「寄り添う」言葉を言うのは難しいことだと思います。医師も複雑な思いから、こんなふうにしか言えなかったのではないかと思うのですが、「そのことをわかってね」と思う医者のほうが図々しいのかな。こうして、思いはすれ違います
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先日「患者に寄り添わない医療に努める」という文章を目にしました。本意は、若い医師が寄り添いすぎてしまうとかえって患者を傷つけることがあり、「患者が歩いている道を探して伴走する」スタンスが大切だと書かれていました。「患者さんに寄り添って」という言葉を耳にすることは少なくありません。とくに看護の言説で多い気がします。患者さんからの投書に対する病院からの回答でも。この言葉は、お守りのように使われがちです。
でも、私はこの言葉は苦手です。医療者から「あなたに寄り添います」と言われて、患者さんは気持ち良いでしょうか。頼みもしないのに寄り添って来る人なんて、なんだか気持ち悪い。そんな人は要注意かもしれない。自分は善意で「寄り添っている」と思いこんでいるような人にはそばに来てほしくない、というかそんな人は特に避けたい。こちらから頼んだ場合でも、あるいは親しい人でも、ペタッと寄り添われたら、鬱陶しい。同時に、寄り添ってほしいとは思っても、そんなことが他人(医療者)にできるとは思えないので、期待してはいけないともきっと思っている。(こんなふうに感じる私は、「愛着障害」だと言われるかもしれませんが。)
「寄り添う」ということは、「寄り添ってもらえなかった」という時にはじめて意味を持つ。それは、そばに居てあれこれ「手を添えなかった」ということではなく、そうした雰囲気を感じられる一瞬のまなざしや表情、たった一言が感じられなかったということではないでしょうか。「寄り添う」というのは、その人のことを案じて思い悩む想像力、少し離れて見守り続けることに耐える力のことなのだと思います。患者さんの気持ちはわからないけれどそばに居続ける、何を言っていいかわからないけれどそばに居続ける。ただ、患者さんは、医療者にそばに居てほしいときも居てほしくない時もあります。だから、この「そば」は真横ではなくて、相手の人が手を伸ばせば届く程度の距離のことです。分かりえないことを覚悟してそれでも何か分かろうという持続する思い。そうした志がなければ、一瞬の表情も言葉も出てはきません。寄り添おうと思ったからといって、寄り添えるものではありません。
「伴走するようにつきあう」という言葉を、私も書いたことがあることを思い出しました。
「だから、私の付き合いは、まずは『ランナーからすこし離れて、見え隠れしながら黙って自転車でついていく』伴走者のように、病者に寄り添うこととしてある。先導したり大声で『がんばれ』と言ったりするわけではなく、ゴールで待ち構えていて『よくやった』と言うのでもない。その人が少し走り疲れて立ち止まった時に、さりげなく飲み物を出し、横からそっと声をかけるような付き合い。そして、時には、花芯を包み込む花びらのように、そっと病者を包み込む。走りを見ていなければ、どのような飲み物を出せばよいのかも、出すタイミングもわからない。目を凝らしていなければ、包み込む時間をできるだけ短くすることもできない。そのために、目を凝らしてその人を見つめることが『観察』である。」(「ケアの情景」医学書院1996)
でも、この表現には、医療者=「自転車で伴走する人」⇔患者=「息も絶え絶えに走る人」という雰囲気があることに気づきました。喘ぎながら走っているとき、自転車で横から(余裕をもって)見下ろされることにだって、不愉快になってしまう人はいるでしょう。No141で書いたように「病者につかず離れず、地図を片手に同じ方向に向かって、初めての町を歩き出す、見知らぬ街を歩く心細さを私自身も噛みしめ、寂しさを感じながら、私は病者を見つめて歩く」というほうが良いように感じています。
医者は誰でもそうしなければならない、と私は言うつもりはありません。なにか気になった時(それは、頻繁でなくても良い)に「大丈夫かな」と患者さんに目を向ける程度でも良いと思います。たまたま目が合うことがあれば、「寄り添ってもらっている」と患者さんは感じます。どうして「気になったのかな」と医師が自分の心にも目を向けると、自分の世界も少し広がります。
「寄り添い過ぎてはいけない」と言いたくなる場面が無いわけではないのかもしれませんが、私はこれまで「もう少しは寄り添ったら」と思う医者にしか会ったことが無いような気がします。自分が好きなようにはいくらでも付き合うが、患者さんが言葉を絞り出したような時には応えない。そんな場面は何度も見ましたが、それは「寄り添う」ということとはきっと正反対のことです。
それに、「問題がある体験」くらい若い時には経験しても良いのではないかとも私は思います。落とし穴を指摘されて落ちたことがないことよりも、落とし穴に落ちそうになって誰かに助けてもらった経験をするほうが大切です。意地悪でなく、落とし穴に落ちそうな人を気にかけ、その直前で素早く助けることは教育であり、そこから先達も学びます。
「寄り添う」も「寄り添いすぎる」も、患者さんが判断することですが。(2014.12)